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1963年プリンス1900スプリント:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#005

伊東和彦/Mobi-curators Labo. プリンス1900スプリント 2023.11.28

復刻車が現れた!

輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し”の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。

ジャパン・モビリティショーと名を変えたモーターショーには、プレスデイ初日の25日と27日の特別招待日の2回、行ってきた。『乗りたい未来を、探しにいこう!』とのキャッチタイトルを掲げての開催であり、その初回になる。ショーの様子は各氏がメディアに書いておられるので、そちらに任せるが、111万2000人が入場したというから、未来のモビリティに的を絞って変貌を遂げたショーは成功裏に終わったといえるのだろう。

長く続いてきたモーターショーのフォーマットでは、ステージ上に“参考出品車”との断り書きを入れたクルマ(ショー終了後に正式発表になることも多々)や、未来を見据えたコンセプトカーが並び、市販モデルが所狭しと居並ぶことが定石だった。それは『クルマを所有することが夢であり、将来の目標』だった初回からの見慣れた光景であった。

そうして長く続いてきた1954年からのフォーマットだったが、クルマを取り巻く環境が激変した(陳腐な言いかただが)、会場を徘徊してきた。もはや主役は生産型車両ではなく、電動化したコンセプトカー群とそれを取り巻く世界観(使われ方)に特化されていた。

60年の時を経て復刻されたプリンス1900スプリント。

さて、今回の連載の話題はジャパン・モビリティショーではない。1台のショーカーを通じて1963年と2023年を繋いでみることにした。

この連載に手を付けたころ、私がはじめて自動車ショーに行ったのは何年のことだったかが気になりだした。幼き日に父に連れられて行った記憶がかすかにあるが、父が残したアルバムを見てもショーはおろかクルマの写真は1枚もなかった。

そこで自動車雑誌のバックナンバーを開きながら、薄れかけていた記憶を蘇らせようとの“楽しい作業”をはじめた。

そんな今年のあるとき、SNS動画サイトで鈴鹿サーキットを試走する「プリンス1900スプリント」の姿に目を奪われた。もしや解体を免れて生き残っていたのか(生存説もある)。あるいは復刻されたのか。動画は何度も再生し、同好の士にも転送しまくった。

それから間もなくして、日産自動車のHPにこの1900スプリントが復刻車であり、2023年9月29日~10月24日の期間、日産グローバル本社ギャラリーに展示するという告知を見つけた。幸い29日には予定はなかったから、初日に駆けつけた。こうして書きはじめてみると、相当に長文になる予感がする。どうぞお付き合いください。

1963年全日本自動車ショーではステージ上に展示された。(写真:日産自動車)

プリンス1900スプリントが公開されたのは、1963年第10回全日本自動車ショーだった。1954年の初開催以来、62年にはじめて100万人を超え、63年は乗用車館が2棟に増えてトラックなど商用車中心のショーから乗用車が主役へと変貌しての開催になった。同年の7月、日本はOECDの「資本移動の自由化に関する規約」に参加したことで、保護されていた日本の自動車産業も外国資本の進出に備えなければならず、各社は量産車の充実を図った。

その環境のなか、近未来を見据えたコンセプトカーの展示も増えて、スポーツカーがショーの華となっていた。日本のクルマ史に残っているコンセプトカーは、1962年くらいから急速に開花していった。

1963年のショーでは、イタリアからの風を感じさせるプリンス1900スプリントや日野コンテッサ・スプリント(ジョバンニ・ミケロッティのスタイリング)が異彩を放ついっぽう、トヨタは独自デザインのトヨペット・コロナ・スポーツクーペを、いすゞはベレット1500GTを参考出品し、ホンダもS500の生産型を公開している。また、東洋工業(現マツダ)が開発中のロータリーエンジンを搭載したスポーツカー(後のコスモ・スポーツ)を展示した。

これは1963年に撮影されたオフィシャルフォト。図面は残っていなかったが、写真からサイズを割り出したという。(写真:日産自動車)

父に連れて行かれたショーが1963年ではなかったかと思ったのは、ステージ上に飾られた赤いプリンス1900スプリントを“見たようなおぼろげな記憶がある”ことだ。赤色のクルマなど見る機会が少ない時代、未来的な赤いスポーツカーは強烈な印象を与えたからだろう。さらに、ロータリー・エンジンの単体を見て、父から説明を受けたような気がするからだ。10歳の子供にエンジンの機構など理解できる訳はないが、「おむすび型」と「未来のエンジン」、その言葉だけがかすかに記憶にある。

これも1963年撮影のオフィシャルフォト。後方はプリンス・スカイライン・スポーツクーペ。(写真:日産自動車)

プリンス1900スプリントは、イタリアのカーデザイナー、フランコ・スカリオーネのスタイリング原案に基づいて、プリンス意匠設計課の井上猛がデザインをおこない、1963年に製作されて同年の全日本モーターショーで公開されたコンセプトカーだ。井上はイタリアに留学し、その際にスカリオーネに学んだ経緯があったことがスプリント誕生に繫がった。

オリジナルの1900スプリントは、1980年代半ばまで村山工場の倉庫に保管されていたが、残念なことに何台かの試作車とともに社外に運び出され、解体の憂き目にあったという。その中には、スプリント1900だけでなく、1960年代初期に政府の「国民車構想」に基づいて開発された小型リヤエンジン車のCPSKと、そのクーペモデルのCPRBもあったという。

試作車が廃棄のために運び出された時の光景は、私が雑誌記者になってから、その場に居合わせた某氏から話を聞く機会があったが、氏は「かけがえのない遺産を残すことができなかった」と、ひどく悔しがられていたことが忘れられない。

失われた1900スプリントは、今回、熱心なプリンス愛好家のT氏が発起人となったプロジェクトによって原型に忠実に再現された。図面は日産アーカイブズにも残っていなかったが、収蔵されていた写真からサイズを割り出すことから着手。日産モータースポーツ&カスタマイズのオーテックデザイン部が縮尺モデルを制作し、日産デザイン本部がクレイモデルを手掛けた。車両の製作は、オリジナルと同様に第2世代スカイライン(S50系)のフロアユニット(同スカイラインはモノコック構造を採用)を用いて、関西のスペシャリスト、INDEX社が製作を担当した。

コーダトロンカのテールの造形は同じくスカリオーネ作の「アルファ・ロメオ・ジュリエッタSS」を思いおこさせる。

60年ぶりに復刻された1963年のショーカーは、それは見事なできばえだった。60年前とは違い、ここではステージに乗っていなかったので、近寄って車室内もじっくり見てきた。過去の雑誌には細部まで掲載されていなかったので、室内がシルバーであることも60年の今、はじめて知った。ボディが手叩きの板金ではなく、FRP製で再現されたことは後日に知人から聞いて知ったが、当然ながら材質の違いにはまったく違和感は覚えなかった。

エンブレムやバッジも正確に復刻された。

日産グローバル本社ギャラリーには、プリンス1900スプリントのほか、日産ヘリテージコレクションから、ベースとなった「スカイライン1500デラックス」と、ジョヴァンニ・ミケロッティがスタイリングを担当したコンセプトカー、「プリンス・スカイライン・スポーツ」が展示されていた。スカイライン・スポーツは1960年トリノ・ショーの出展車そのものだ(詳しくは後述)。

気がつくと、私は1900スプリントの前に2時間近くいたようだ。一通り見てから、ギャラリー内のカフェで過ごし、またクルマまで戻るということを繰り返していたからだ。撮影した写真は100枚以上になった。

この時期のイタリアン・スポーツらしい、コンパクトな計器板とウッドリム・ステアリングの配列。

気がつくと、2〜3人くらいだろうか、同じように長時間クルマを見ている観覧者がおられた。私は観察用の資料にと、日産のHPからダウンロードした1963年ショー当時の広報写真と、編集者時代に私が作った『日本のショーカー1』を持参していったが、ギャラリーに内では、なんと同書の1900スプリント掲載ページを開いている方に遭遇した。その方は私よりだいぶ若く見え、細部まで盛んに写真を撮っておられたが、どんな感想を持たれたのだろうか(私がいち観覧者の立場でなかった図々しく問うてみただろうが)。

ひとりのエンスージアストの情熱が点火栓となって、メーカーも協力して歴史的に重要なクルマが復刻されたことは驚きであり、賞賛されるべきことだと思う。

今回は、1963年当時の製作シーンなど豊富な資料がバックに投影されていた。それ自体が見応えある、見事な展示だった。

1900スプリントが誕生した経緯を簡単に触れておきたい。そのキーマンとなったのが、プリンス自動車からイタリアに派遣された井上猛だった。イタリアに渡った井上はミケロッティ工房を訪ねてスポーツカーのデザインを委託している。これによって誕生したのが、日本車としてははじめてイタリアンデザインをまとった生産車、スカイライン・スポーツであり、1960年のトリノ・ショーでデビューを果たした。

1900スプリント、ベースとなったスカイライン1500、そして1962年トリノ・ショーカーの実物であるスカイライン・スポーツが居並んだ。

当初の目的を果たした井上はスカリオーネの工房に移った。時期的には、ちょうどスカリオーネがベルトーネを辞して独立したころだった。

プリンスが小型国民車のCPSKを計画していたことは先に触れたが、スカリオーネでは、井上も加わってCPSKをベースとしたリアエンジンの小型スポーツカー、CPRBの計画が進められた。CPSKの生産化が断念されたことで、同時にCPRBも世に出る機会を失った。残された写真によれば、CPRBは引き締まったスタイリングのスタイリッシュなクーペだった。

そのCPRBのスタイリングコンセプトを、S50型スカイラインをベース車にして製作したのが、1963年の全日本モーターショーにて公開された1900スプリントである。前述したように、CPRBのスタイリングを、サイズがひとまわり大きく、またフロントエンジンのスカイラインをベースにして置き換えたのが、スカリオーネとともに作業に当たっていた井上猛である。

さらに詳しい情報は、デザインジャーナリストの千葉匠さんがResponseに記しておられるので、ご一読されたい。

(文中敬称略)

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