スカリオーネの名作、アルファ・ロメオ「ジュリアSS」と接近遭遇:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#006
伊東和彦/Mobi-curators Labo. アルファ・ロメオ・ジュリア・スプリント・スペチアーレ 2023.12.12白いジュリア・スプリント・スペチアーレ
輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し”の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。
前回の連載ではプリンス1900スプリントに触れたが、今回はその関連から同じフランコ・スカリオーネのデザインになるアルファ・ロメオ・ジュリア・スプリント・スペチアーレについて記してみたい。
ある日、わが家の近くに住むクルマ仲間のI君(この連載には常連)が、息せき切ってわが家にやってきた。いつもは冷静な彼にしてはめずらしく興奮し、カメラを抱えていることから、わたしは即座に近くに被写体が来ていることを察した。
「エスエスがいるんだ!」とネイティブ英語でいうが、その時はどのモデルなのか、まったく想像がつかなかった。すでに「クルマが停まっているお宅には撮影の許可をいただいている」とのことから、相当の逸品なのだろうと彼の言葉だけで私もウキウキしてきた。
フィルム(モノクロのフジ・ネオパンSS)は1本だけ手持ちがあったので、慎重にアサヒ・ペンタックスSVに装填して現場を目指した。
広い駐車場の真ん中に、現物を一度も見たことのないアルファ・ロメオ・ジュリア・スプリント・スペチアーレ(10121)が停まっていた。かすかにグレーがかった白に塗られたボディが、雑誌のモノクロ写真で見るより遙かに曲面豊かなことを知った。
いつもはケチケチとフィルムを使っていたが、こんな恵まれた条件での撮影は永遠に訪れないだろうと思い、「フィルムをすべて使いきってしまおう」と、I君と頷きあった。ところがいま、その時のベタ焼きを見ると、似たようなカットばかりで冷静さを欠いていたことが明らかで、われながら恥ずかしい。ネガホルダーには1973年12月半ばの日付けがある。
いま思えば、二度と訪れないはない機会だろうから、厚かましさついでにオーナーを呼んで、エンジンルームや車室内をしっかり撮影しておけばよかったと悔やむがしかたがない。
だいぶあとで、ジュリアSSは当時のアルファ・ロメオの総代理店であった伊藤忠オートにより1963〜66年ころまでに6台を正規輸入されたこと、この時のSSもその1台と知った。
後年にレストアされたSSは何台も観たが、この時に見た、“降ろしたて”から間もないコンディションの白い塗色ほど、SSが美しく見えたことはない。個人的には、ザガートが手掛けたジュリエッタSZやジュリアTZのレーシングモデルより、スカリオーネの優美なデザインをまとったSSに魅力を感じているが、それは、この時の衝撃が大きかったからだろう。今でも、好きなヒストリック・アルファ・ロメオの筆頭だが、ヒストリック・カーとして入手するにはあまりに高価になりすぎた。
スカリオーネのスペチアーレのこと
ファミリーカーとして生を受けたジュリエッタではあったが、だからといってアルファ・ロメオのモータースポーツの伝統が消えることはなく、ジュリエッタ・スプリントにはツインキャブレターを備えるなど、高性能モデルとしてヴェローチェが加わった。ヴェローチェはそのままでもレースで使用できたが、ザガートが独自に軽量ボディを架装したSVZ(Giulietta Sprint Veloce Zagato)が1957年以降、レースで活躍しはじめると、これに触発されたアルファ・ロメオは、スパイダー用のSWBシャシーにザガートのボディを架装したSZ(Sprint Zagato)を開発し、販売を開始した。
また、ベルトーネはレースよりも高速クルーザーの性格を備えた、ジュリエッタ・スプリント・スペチアーレを企画した。ベルトーネが掲げた目標は、スプリントのコンポーネンツを使いながら空気抵抗の低減を図ったボディを開発する挑戦であり、この意図に沿ってフランコ・スカリオーネがスタイリングを描いた。現代なら風洞実験で検証することが一般的だが、ベルトーネはアウトストラーダのトリノ-ミラノ間において、プロトタイプのボディに毛糸を貼り付けて可視化することで開発と検証を実施。1959年に生産が開始され、後に1600ccのジュリアに発展した。