水陸両用車初体験の記憶 伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#40
伊東和彦 アンフィカー 2026.01.24
「アンフィカーでディナーに行こう」と友人からの提案
2026年東京オートサロンに行った。毎年、開催に長く携わっていたYさんと場内を一緒に回るのが常だが、今年、二人の話題が集中した1台が鮮やかなブルーのアンフィカーだった。正式名をAmphicar770といい、水陸両用車を意味するAmphibian Carに由来して、Amphicarなる造語が車名になった。
華やかな東京オートサロンの会場にあっても、ボートとクルマをミックスしたかのような異質なクルマは、観覧者だけでなくメディア関係者の関心を集めたことは明らかで、ネット上には解説テキストが複数散見される。Yさんは、幼いときに宝塚ファミリーランドでアトラクションに使われていたアンフィカーに乗ったことがあったといい、私も関東地方でも某遊園地で目撃した記憶がある。なお、本稿で使用したオートサロン会場での写真は、私以上にアンフィカーへの関心が高かったYさんの提供である。
青いボディが、旅の引き金になる
アンフィカーが話題になっているのなら、是非とも私もその記憶を書かねばならないと思った。かくいう私は、1999年ごろのフランス旅で、セーヌ川でアンフィカーに乗る機会に巡りあったからだ。セーヌの水面をクルーズして河岸にあるレストランにディナーに行ったのだから、忘れるはずはない。水面から直接、レストランに乗り付けるなどした日本人は、私と同行したOさんくらいではないか、クルーズ中にそう思ったほど希有な体験だったのである。
セーヌへ、記憶は逆流する
アンフィカーを微速進行させながらレストランに近づき、ギャルソンに向かってこのクルマのオーナーであるフランス人の友人が、「予約している○○だが」と叫んだときには、食事中の客たちから喝采があがった。さらにフォークを置いて立ち上がって迎えてくれたほどの騒ぎになり、私たちが席に案内されると、飲み物を贈ってくれた客もいるほどの盛り上がりぶりだった。
水面からの入店、拍手の余韻
レストランに向かう途中、私は船長からステアリングを握る機会を与えられ、しばし仮の船頭になった。ステアリングは、陸上では一般的なノンパワーステアリングのフィールだが、いったんボートに変身したアンフィカーは船舶のような独立した舵を持たないことから、タイヤの切れ角が舵になり、ステアリングの“当て方”にはコツがあるようだった。姿形はクルマだが、当然ながらステアリング感覚は無きに等しい軽さだった。
舵のない航走、タイヤで水を切る
陸上では後輪を駆動するは、船になったアンフィカーは2個の3枚羽スクリュープロペラ(直径290mm)が司り、アクセルペダルで推進力をコントロールした。そのエンジンはリアに搭載されるトライアンフ・ヘラルド用の1147cc、OHV4気筒、38bhpであり、空車重量は1000kg程度なので、地上でもけっしてパワフルなわけではなく、諸元評によれば陸上での最高速度は115km/h、水上では12km/hとある。
アンフィカーの詳しい紹介は後半に送るとして、日本でもヤナセ系列のウエスタン自動車が5台を正規輸入している。梁瀬次郎氏が渡欧して直々に契約を締結して正規代理店になったという。初お目見えは1963年11月14日〜18日に東京晴海の国際貿易センターで開催された東京オートショー(通称:外車ショー)で、1台が展示されて、展示館横の池でデモ走行がおこなわれた。価格未定でのショー展示だった。
軍用ではなく民生用として市販された水陸車としては希有な例となり、1961年秋発表時のドイツ国内価格は1万500DM(63年4月から8385DMに値下げ)だった。ちなみに1962年4月当時、ドイツ国内ではVW1200ビートルのスタンダード・モデルなら4200DM、カルマンギア・カブリオレは7635DMで買えたから、アンフィカーはかなりの高価格車である。
入水前の小さな儀式
話を私のアンフィカー体験に戻す。入水に際しては、水面に向かうなだらかなスロープを持つボートハウスが最適であり、この日もセーヌ川を走りながら、最適な場所に向かった。自動車から船舶への変身に際しては決められた手順がある。まず、ドアロックを締め上げ、水抜きの栓が完全に締まっているかを確認する。さらに定められた航行灯を装着し、前方のトランクに収めてある救命浮き輪を車室内に置き、船体の周囲に岸壁時に船体を守るボートフェンダー(保護材)を設置し、準備が整う。
フロアから生えたトランスファー操作レバーを操作して、スクリュープロペラの駆動を確認。これらの手順を踏んでタイヤ駆動によってスロープから入水できる。逆に陸上に上がる際には、後輪が接地したタイミングを見計らってからタイヤに駆動力を掛ければいいことになる。
短時間のクルーズで人生初のアンフィカー体験に感じ入った私は、機会を見て自分が編集している雑誌に必ず詳細な記事を掲載しようと思いたった。セーヌで水飛沫を浴びながらの“思いつき企画”だが、概してこうした思いつきが読者には喜んでいただけるものである。まあ、結果はどうかはわからないのだが、少なくとも、オーナーから欧州における水陸両用車の権威を紹介してもらい、かなり詳しい記事を掲載することができた。
アンフィカー誕生の経緯
アンフィカー・タイプ770の基本コンセプトをまとめたのは、ドイツ人技術者のハンス・トリッペルだった。彼の技術者としての生涯を追うと、水陸両用車にささげたことがわかる。
足跡を簡単に記しておきたい。第二次大戦中、ドイツ軍の命を受けたトリッペル技師は、軍用水陸両用4輪駆動車の開発に当たった。1940年にはドイツ軍が接収したブガッティ社のモールスハイム工場に委託して、自ら工場長としてオペル製6気筒エンジン搭載モデルを約1000台製作している。それゆえに終戦後には戦犯として数年間を刑務所で過ごしている。
刑期を終えたあとは、300cc級二輪車用エンジンを搭載した小型水陸両用車やバブルカーの設計を手掛けたものの、どれも生産化には至らず、1957年には、手頃なサイズのレジャー用水陸両用車の開発を模索した。さまざまな試行を経て、アリゲーターと名付けられた後のアンフィカー770の原型を完成。市販化を目論んだ。
彼はアリゲーターの主要市場はアメリカ大陸であると睨んでいた。詳細を発表すると、アメリカの投資家集団が関心を示し、アンフィカー・コーポレーション(AC)をニューヨークに設立すると、2万5000台を注文してきた。同社は前述したように“Amphicar”と命名した。
トリッペルの予想を遙かに超えたであろう大量の注文を抱えた彼は、大物投資家の家系にあるハロルド・クヴァント(ハラルド・フリードリヒ・ルートヴィヒ・クヴァント)からの資本投入を仰ぐことになった。BMW好きの方ならクヴァント家の名に聞き覚えがあることだろう。クヴァント・トラストはBMWの大株主であり、トリッペルとは旧知の仲であったクヴァントはトリッペルからアリゲーターのライセンスを買い取ると、彼を技術アドバイザーに据えて大量生産のための組織を構築した。さらにクヴァントはBMWでの委託生産さえ模索したが、BMWには余力がなく、結果的にカールスルーエにあるクヴァント・トラスト配下のIWK(Industriewerke Karlsruhe)のリューベック工場での生産が決まった。1962年には、その後のBMWに成長の原動力になった1500ノイエクラッセの販売がはじまり、アンフィカーの委託生産など論外であったのだろう。
ここまで紹介すると順調に運ぶかと思われたが、さにあらず。本格生産開始以前に熟成と生産施設準備に多数の問題を抱えて出鼻をくじかれることになった。クヴァントがさまざまな打開作を講じていくうえで、発案者のトリッペルが出る幕はなくなり、彼は失意のうちに計画自体から身を引いてしまった。
また、水陸両用車ゆえの特殊性から生産には手間がかかり、製造コストの上昇は避けられなかった。錆止め処理が入念におこなわれことはもちろんで、上質なペイントを用いた標準ボディカラーはどれも鮮やかで、ビーチホワイト、ラグナーブルー、レガッタレッド、フィヨルドグリーンの4色が用意された。
エンジンは不可解なことにドイツ製ではなく、安価で入手できるという理由からトライアンフ・ヘラルド用の4気筒1200cc型が選ばれ、ギアボックスはドイツのヘルメス社が、トライアンフの4段型をベースにスクリュープロペラ駆動用の出力取り出し機構を加える改造を施した。
水陸両用車では上陸時に駆動力を強く掛けるためにテールヘビーが必須であるため、リアエンジンが設計での必須要件になる。他の主要コンポーネンツはヨーロッパ車からの流用だった。
2万5000台の夢が破れた日
1961年、アメリカで発売時の価格は3395ドルと決まった。これはシボレー・コーヴェットやジャガーEタイプと同等、VWビートルの3倍の値付けだった。まったく知名度がないクルマであり、よほどの好事家でなければ食指を動かそうと考える価格ではなく、立ち上がりから商業的に失敗が明らかになった。
発売まもなくして生産調整が実施され、1967年頃までアメリカで在庫整理として販売が続き、売れ残った過剰在庫車はドイツに戻されていった。1967年9月22日にイタリアでの航空事故でハロルド・クヴァントが他界すると、クヴァント・トラストは損益を理由にアンフィカー事業の閉鎖を決定した。
生産台数は僅か3878台で、そのうち3000台ほどがアメリカに輸出された。一説によれば世界規模での現存は1000台ほどと言われている。メーカーは淡水での使用を想定して設計したが、顧客は海でも使用したことで錆に悩まされたという例を考慮すれば、生存率は高いとはいえまいか。
歴史では仮定の話、イフは無意味だが、もしアンフィカーが高い品質とそれに相応しい水陸での性能を有して、適切な時期に生産されていたのなら、災害用緊急車両、あるいはファンカーとしてそれなりに満足できるビジネス規模になったのではなかろうか。生まれる時期が早すぎたのかも知れない。この日、セーヌをクルージングしていたときの注目度は、いかなるスーパースポーツカーより勝るのではないか、私はそう感じ取ったからである。