1976年のあの日、私は「F1」富士スピードウェイにいた。映画『RUSH』が想起させた雨の記憶:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#003
伊東和彦/Mobi-curators Labo. フェラーリ312T2、コジマKE007、ティレル007 2023.10.12
歴史となった雨の富士スピードウェイ
輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し”の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。
2014年2月のある日の昼すぎ、都内での仕事が早く終わったとき、映画を観ようかなと思った。携帯端末で上映館を調べると、近くの映画館での字幕版上映がちょうど都合のいいタイミングであり、シニア料金が適応される年齢になっていることが分かった。
映画とは、ニキ・ラウダとジェームズ・ハントの2名のF1ドライバーを描いた「RUSH」だ。TV宣伝や雑誌記事の扱いかたが奇妙・大袈裟なので、あまり気が進まなかったが、クルマ・ライターみたいな仕事をしていると、なにかと話題になるので観ることにしたのだ。
映画の山場は、1976年10月24日に富士スピードウェイで開催されたF1第16戦(最終戦)、豪雨の中での決勝レースだ。それは、日本初のF1レースで、F1世界選手権イン・ジャパン(F1 World Championship in Japan)といった。
私はそのとき、S字コーナー入り口あたりでコースサイドの金網に傘を括り付け、アルミ製カメラバッグに座り、早朝から延々とスタートを待ち続けていた。レース観戦の時にしか着る機会がない重装備の雨合羽を着込んではいたが、10月末の富士はただでさえ寒いのに、激しい雨のために体は徐々に濡れ、カラダは冷えきっていった。



その2年前。1974年11月に富士グランチャンピオンレース最終戦のサポートイベントに5台のF1が来日し、デモ走行をおこなった。エマーソン・フィティパルディ(マクラーレン)、ロニー・ペテルソン(ロータス)、パトリック・ドゥパイエ(ティレル)、カルロス・ロイテマン(ブラバム)、ジェイムズ・ハント(ヘスケス)のトップドライバーたちがやってきた。フィティパルディはこの年のワールドチャンピオンに決まっていた。
このデモランは、2年後の1976年に計画されていたF1GPの日本開催を前提にしたイベントとの触れ込みであり、5台を取りまとめてきたバーニー・エクレストンは、告知ではデモ走行と謳っていたが、実際には模擬レースを“しかけて”いたという(あとで知ったことだが)。確か20周くらい走った記憶がある。
私と仲間は、初めて目にしたF1の速さと、本物のレーシングエンジンの雄叫びに度肝を抜かれ、それ以来、グラチャンレース観戦はすべて止めて小遣いを貯め、1976年のこの時が来るのをずっと待っていた。
本戦が待ちきれずに練習日(?)にも行ってみたほど、期待は膨らんでいた。そしてレース当日、金網とコースが一番近い場所(当然ながらチケットが安い自由席)に陣取りするため、早朝に横浜の自宅を出発し、親友のI君と激しい雨の中、わが家の初代シビックGLで下道だけを飛ばしてやってきた。
前夜から降り続く雨はますます激しさを増し、CCCJ(日本クラシックカークラブ)のメンバーによるヴィンティッジカーのパレードでさえ、幾筋の川となった雨水が覆うコースではボートが走っているかのような有様だった。あの細いヴィンテージ・タイヤでさえ危なっかしく見えるのに、F1の太いタイヤではどんなことになるのか、素人目にも恐ろしい天候下でのレースが予想された。


フェラーリのラウダは2周で降りてしまった
映画では、時差に配慮して「世界中のファンがレースを観たいから⋯⋯」と夕暮れ迫るなかでのスタートを決行するシーンがあるが、もちろんずぶ濡れになっていた私たちも、一刻も早いスタートを待ち望んでいた。
私はこの悪天候の夕刻では素人カメラマンの手には負えない(本当は宝物のカメラを濡らすわけにはいかない)からと、早々に鞄の中に仕舞い込み、ただただ場内放送による(不親切な)スケジュールの発表に聞きっていた。
雨雲に覆われた空が暗さを増し、時間切れで中止かと思い始めたころ、アナウンスがやっとスタートを告げ、スタンド前で轟音が高まった時には、いよいよ本物のF1レースが楽しめると寒さからではない鳥肌がたった。
だが、ご存じのとおり、ニキ・ラウダは危険だから(リスクが大きい)と2周しただけでクルマを降り、チャンピオンに就く機会を捨て、あとはジェームズ・ハントがチャンピンの座を射止めるにかに関心が移った。ラウダが奏でてくれるであろうフェラーリ・フラット12の排気音を楽しみにしていた私は、これで興味の大半が削がれた。

悪いことに、私たちが陣取っていた場所では場内放送がほとんど聞こえず、情報を得る手段がないために歯痒い展開となった。アンドレッティの勝利は観ていてもわかったが、ハントが劇的な挽回でチャンピオンの座を射止めたことは、あとで場内放送によって知った。なんとも不満が残るF1レース初体験であった。
全身ずぶ濡れとなり、水が溜まった靴を脱ぎ捨て、裸足で運転しながらの帰路は、果てしない渋滞と疲労からの眠気、窓の曇り、そしてなにより望まぬレース展開から、車中では口を閉ざしたままであった。もちろん早々にリタイアを決めたラウダの苦悩など、後になって雑誌や書物を読むまで、私たちは知る由もなかった。
もし、今、時間旅行が可能であったなら、あの帰路の車内にワープし、若い私にこういってやりたい。
「オマエがシニア料金で映画が観られるようになったとき、このレースの様子が映画になる。雨に耐えながら目撃していたことをずっと忘れずにいれば、2014年に映画を観たときに、きっとあの場にいてよかったと思うだろうよ⋯⋯」と。
いや、もしかすると、渋滞の中で何度も誘いかけてきた睡魔のなかで、還暦超えになった私の声を聞いていたのかもしれない⋯⋯、なんてことはないのが。
だが、この日、突然、『RUSH』を観に行く気になったこと、そしてやけに情景をよく覚えていたのは、未来の私からの言いつけを守っていたからに違いないと思うことにした。あの時ほどいまやF1にときめかなくなった私だが。
