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N360のころ:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#23

伊東和彦 ホンダN360 2024.11.20

ホンダが放った新しい軽自動車に惹かれた

ホンダN360には少なからず思い入れがある。私はN360のエンスージアストではないが、それが発売された時の“クルマ界”の熱気を浴びたひとりとして、N360には特別な感情がある。理由は簡単だ。ほしい。16歳になったら直ぐに“軽免許”を取って運転したいと思った最初のクルマだったからだ。

クルマ好きの私にとって、1966年の東京モーターショーは今でも印象的に残っている。クルマについての論説ではマイカーブームという言葉がよく使われる。研究者によって見解はあるが、1966年にトヨタと日産から1000〜1100cc級の小型大衆車が登場したことで大きく歯車が回り、後に1966年を「マイカー元年」と呼ばれるようになる。それ以前に、日産「ブルーバード」とトヨタ「コロナ」に激しい販売合戦、いわゆる“BC戦争”が巻き起こっていたが、さらに大きな需要が見込まれるひとまわり小型の乗用車クラスに及んだことで、マイカーブームは拡大した。

さらに軽乗用車では、スズキとスバル、マツダによって形成されてきた市場に、ダイハツが「フェロー」、ホンダが「N360」で参入した。いずれも2気筒だが、フェローは水冷2ストローク、N360は空冷SOHCのFWDと性格を分けていた。世界屈指の高い性能を備えた二輪車を生産するホンダが完成させたN360は、8500rpmという高回転で31psを出しており、軽自動車の出力競争の火付け役となった。N360の成功を受けて、スズキは2ストローク3気筒リアエンジンのフロンテを投入して反撃に転じた。

1966年東京モーターショーで配布された記憶があるパンフレット。(ホンダ)

こうした軽自動車の充実にはマイカー購入者を増やす要素になった。さらに当時の制度により、排気量360cc以下の軽自動車は16歳から運転ができたことから、若い人たちのクルマへの関心を高めることになった。それまでにも若い人たちの心を揺さぶったクルマは存在したが、若い人たちがクルマをほしいと思っていた時期に、そうした人たちの心を強く刺激したのがN360を核にした軽自動車であったと言っても過言ではない。

「自分のクルマを持つこと」、「クルマと過ごす生活」が当時の日本人にとって憧れの対象、近未来の目標であった1960年代後半、若い人たちは活動的だった。それは1989年を頂点としたバブル時代の浮き足だった熱気とはまったく異なり、クルマに乗りたい、持ちたいというピュアな熱気に根ざしたものであったと思う。

私が初めてN360を見たのは、中学の友人と行った1966年東京モーターショーの会場だった。ステージ上に置かれたアイボリーホワイトのN360に目を奪われた。中学生の私がなぜN360を気に入ったのかは、今ではよく思い出すことができない。ショー会場でN360に熱狂し、リーフレットを手にするために長蛇の列をつくる人たちの熱気が伝播したのかもしれない。軽自動車であるにもかかわらず31psという高性能ぶりと、その“ミニクーパーのような”スタイルに惹かれたことだけは覚えている。

軽自動車なら、大人になったら買えそうだ、運転してみたいと思った。中学生の子供でもN360の登場は衝撃的であったから、ステージに熱い視線を向けていた“大人”にとってはさらに現実味を帯びた衝撃であったことだろう。

興奮冷めやらぬまま帰宅し、隣に住むスバル360信奉者の親類にN360のリーフレットを見せ、「とっても格好がいいクルマで、前にエンジンがあって、前のタイヤが動く」と何度も話したことはおぼろげながら覚えている。その頃の私は前輪駆動という機構をそれまで知らなかったし、この時に存在を知っても、それにどういう効果があるかはわからなかったのだが……。

N360以前にも日本車にも前輪駆動(FWD、FF)の採用例はあったが、N360によって前輪駆動の存在が広く知られることは確かだろう。(ホンダ)

だが、スバル360一筋に歩んでいた叔母の反応はつれないもので、「そんな馬力もいらないし、オートバイ会社が造ったクルマはねぇ〜」との消極的な発言だった。当時の大方の軽自動車ユーザーにとって、ホンダに対する“オートバイ会社のクルマ”という反応は少なくなかったことだろう。

だが、N360を街で見る機会は確実に増えていった。前述したように、当時は16歳になれば軽自動車の運転が可能な免許証を取得することができたが、私がその年齢に達する前に四輪車の運転免許の取得年齢が18歳に引き上げられた。もう少し早く生まれていたら、是が非でも免許を取得していたことだろうと思う。父にはクルマを買う考えはなかったが、たとえ自宅にクルマがなくても、免許を取るだけで、機械を操ってどこへでも自由に行くことができるという無限の可能性が開けるように思えたのだ。それならばと、私は同じホンダブランドの中古原付バイクに乗ることを選んだ。

二輪車の技術を応用した空冷2気筒360ccエンジンを横置きに搭載した。BMCミニに看過されていた私にとっては、このメカニズムにも興味を覚えた。(ホンダ)

私が通っていた中学・高校は中小企業経営者や商店主の子弟などが多かったためか、高校の先輩の中でも何人かがN360やスバル360に乗り始めていた。

高校生でも軽自動車に乗ったが、それは、家計に余裕のある家庭では「二輪車よりは安全だ」と軽自動車を捉えていたからだろう。中には息子の意見に沿って営業用の車両をN360に買い換えたという話も聞いた。

そうした彼らの間では、N360をスポーティーに仕立てる例もあり、これが一つの軽自動車文化となっていった。1967年といえば、わが国でも限られたファンとはいえモータースポーツ文化が広まり始めており、これに感化された若者にとってN360は格好の手段になった。格好のいいステッカーを貼るという手軽なものから始まり、エンジンやサスペンション、ボディに手を入れるという大がかりなものまで、予算と趣味に応じて様々な改造が施された。自動車専門誌にはこうした顧客にアピールする専門店の広告が並ぶことになった。

N360をベースにして自分だけのクルマにしたいと考えるユーザーのために、さまざまなパーツが多くのスペシャリストから発売された。その最高峰がレーシングメイトだろう。これはそのカタログ。

あるものは繁華街での“コンクール”に興じ、またあるものは軽自動車でモータースポーツの世界に足を踏み入れていった。そして彼らの受け皿となったのが、軽自動車自体やそのコンポーネンツを用いた様々なレースであった。

繁華街や広場に集まるストリートレーサーのグループには、良識ある大人は眉をしかめたのは事実だが、彼らを弁護すれば、当時の軽自動車の改造車は、現在のそれよりはるかに速度も遅く、今、考えれば“可愛いもの”であったと思う。

自分で買うならこの仕様、スポーツタイプの“S”のサンルーフ付きがいいと思ったが。(ホンダ)

ある公園の脇で、そうした若い人が乗るスバル360やN360、マツダ・キャロルがずらっと並ぶ光景に出くわしたことがあった。ノーマルのままは少なく、ステッカー1枚でも改造が加えられていた。スバル360では車高を下げて「アバルト595」のように、エンジンリッドを持ち上げているものもあった。大多数を占めていたN360では、車高を下げたうえでワイドなタイヤを履いたり、ステッカーを貼り付けたり、その外観のイメージが共通するBMCミニ・クーパーSを真似たかのようにルーフを別のカラーに塗り分けているクルマが多かった記憶がある。私の周囲の先輩でも、N360やスバル360でジムカーナに興じてモータースポーツに足を踏み入れた例もあった。

また、モータースポーツ専門誌の『AUTOSPORTS』誌には、N360を使ったモータースポーツ参加の手引きが連載された。私の手元には1971年1月号の1ページが残っているが、タイトルの「第3章 キミ自身が改造するのだ」を何度も読んで心を熱くした記憶がある。

N360とは縁遠いままであったが、大学に入ってから親しくなった友人が空冷エンジンのホンダZを持っていたので、なにかと理由をつけて頻繁に乗せてもらい、N360のフィールを体験することができ、積年の想いを遂げた気分になった。

N360から派生したスペシャリティカーの“Z”。(ホンダ)

そして2012年ごろにクルマ好きの先輩から、程度のいい1台(初期型のN1)を、リーズナブルな価格で譲っていただけることになった。私の周囲にはヒストリックカーとしてN360を持つ者はおらず、仕事も含めて試乗する機会はもうないだろうと思っていたので、喜んでこの好意に甘え、北海道に住む友人と共同所有にして彼の広いガレージに常駐させていた時期があった。北の大地に旅した時にはレンタカーを借りず、N360を移動手段にしていた。初夏の郊外で乗ることが多かったからか、数年間ではあったが、おおいにN360の実力、欠点も含めて堪能させてもらった。

友人と共有していた私たちのN360。これは富良野周辺を250kmほどドライブした時の1枚。S800のフェンダーミラーを付けてみた。
いろいろ不便はあったが、レンタカーより楽しかった。ステアリングも好みのものに交換してみた。

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