INTERVIEW

ニコンFシリーズとF1トップ・フォトグラファーの対話 #03

カメラ・メーカーとの対話

PF編集部 ニコンF3 2022.07.27

「スポーツグラフィック・ナンバー」での飛躍

1980年代に入り、グランプリ・フォトグラファーとしての地位が確立してきた金子さん。カメラの生産企業であるニコンの技術者と、直接対話する機会も生まれた。

PF:ニコン F3が出たのはいつでしたか?

金子:1980年です。F3になってからも僕より全然カメラが上なんですが、カメラの欠点も見えるようになって、ここをこうした方がいいんじゃないかな、こういう感じになればいいな、と思うようになりました。ニコンのカメラを作っている人たちとも話ができて、ここをこうしましょうとか、ああしましょうよとかね。

PF:モータースポーツ専門誌だけでなく、文藝春秋発行のスポーツ雑誌「ナンバー」も手掛けられていましたね。

金子:そうです。F1を取り上げてくれました。表紙も何回か。当時僕が一番やっていたのがナンバーです。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 1984年、F1で3度目のドライバーズ・チャンピオンを獲得するニキ・ラウダ。

PF:ナンバーでF1を取り上げるようになったのはホンダが参戦した時期からですか?

金子:もう少し前です。ニキ・ラウダが表紙になりました。ナンバーを手がけ出したら、ニコンの担当者の対応が目に見えて変わりましたよ。

PF:その辺面白そうですね。詳しく教えてください(笑)

金子:ナンバー以前は、ニコンの人に軽んじられているなと思うことがありました。向こうは机の上で何か実験したり考えたりしている人たち。僕は実戦で使っている人間です。その擦り合わせが面白かったですね。向こうが全然わからないことをこっちは知っているんです。その反対もあって、俺が分からないことを向こうは色々知っている。

例えばF1に行く時に、カメラをどうやって持っていくかを彼らは知らない。どのようにカメラバッグに詰めて、こういうふうに包んで衝撃が伝わらないように入れて行くんだよって。丈夫なカメラを作ります、壊れないカメラを作りますと言っているけど、開発者の側はそういうことをけっこう知らないんです。飛行機に乗ってクルマに積んで揺られて、ガラガラあちこちに引っ張っていって、それでやっと現場に着いてカメラバッグ開けるでしょう。カメラとはそういう使われ方ですよって伝えてやっと理解してもらえるという感じですね。

逆に僕の知らないこと、カメラはこういうふうに設計しているんですよとか、こんな実験もしていますって話はとても面白かったです。だからお互いためになったのだと思います。ナンバー以前は、時々ですけど、この人たち正直に話してないな、ちゃんと腹を割って話してほしいと思うこともありました。

そういうわけで、F3とナンバーをきっかけに、ニコンの人とは面白い思い出がたくさんあります。こちらのリクエストもよく聞いてくれたし。でもそういう面ではキヤノンの方が一所懸命で、ニコンは基本的にフリーカメラマンを相手にしない傾向がありました。大先生と大新聞社がお客様。

だけど最終的にはよく話を聞いてくれたと思います、ニコンの人も。

PF:最終的と仰いますのはいつごろですか?

金子:2000年代になってからかな。ラーメン屋で腹を割って話ができる一歩手前まで行きました。だからすごく楽しかったですね。でも本当に最後の最後ところは向こうも腹を割らなかった。秘密のところはね。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 1985年モナコGPのアイルトン・セナとロータス97Tルノー。

ニコン社長とのやりとり

金子:最後ね、ニコンの社長と会ったんです。品川のとある料亭で。その人は現役エンジニアの頃にニコン F3の設計図を引いた人でした。F3には致命的なところがあって、これこれこうでしたよねって言ったら、しらばっくれていましたね。

PF:そうなんですか。わかっているはずなのに?

金子:ニコン FEのモータードライブのグリップのところに磁石がくっつくと勝手にオンになる現象。なぜ気が付いたかというと、カメラをカメラバッグに入れたら、その横には露出計が当然入る。当時の露出計には強い永久磁石が入っていたんです。それがたまたまカメラの横にくっつくと、モーターがオンになりますね。バババババババってモータードライブの音が聞こえたらすぐ止められるけど、音に気が付かない時は勝手にモータードライブが動いて、いざ撮影する時には電池が切れている。

PF:フィルムがなくなるだけでなくて電池も切れると。

金子:いや、移動中はフィルムを入れていません。電池の問題です。例えば車の後ろにカメラバッグに積んでいたら、音は聞こえないでしょう。勝手にモーターが動いているから電池が消費されてしまうんです。こうでしたよねと言ったら、社長はいやそんなことありませんよって。でも実際それは大問題だったらしいです。

PF:そう簡単に解決できる問題ではなさそうですね。

金子:設計し直しですね。リレーの何かに反応しちゃって電源が入ってしまうそうです。

PF:それはある時期に対策されたんですよね。

金子:直りました。僕はトラブルを知っているし、直った後も知ってるんだぞと。でも向こうは言わなかった。少し寂しかったですね。

当たり障りのないところでは本当のこと言ってくれましたよ。モータードライブのところが空いているから水が入る、だからモータードライブを外してボディを抜くとそこから水が染み込むんだよって言うと、向こうもそれは分かってて、あっそうでしたね、対策しましたって。

でもニコンの社長と会えるというのが本当に嬉しかったんです。僕みたいなチンピラカメラマンが、そういう方と対等に話していましたからね。今から5、6年前の話だと思いますが、うちにいっぱい在庫があったF3のデッドストック、新品をその社長にあげたんですよ。それを差し上げて、色々話しをさせてもらって、楽しかった思い出です。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 上:1988年のアイルトン・セナ。マクラーレンに移籍し、初めてF1チャンピオンとなった。左下:1991年ポルトガル・テスト/中嶋 悟。右下:1992年フットワークを駆るミケーレ・アルボレート。

F3を使い込んで、極めた

金子:F3はもう骨の髄まで使ってやったと思います。なにしろカメラマン人生の大半をF3と過ごしたわけで、楽しい時間が長かったです。対等だったんでしょうね、カメラと僕が。だからカメラと話もできた。FやF2ではカメラとの対話はできなかった。それだけにF3は嬉しかった。思い出深い機種です。

僕にぴったり合ったのかな。その時の僕に。僕も技術的にどんどん上手くなっていく。それとカメラの進化が同じような感じで行ったから楽しかったのかもしれないですね。

僕は最初下手だったんですよ。すごく時間が掛かって。でもちょっとずつ上手くなっていく曲線がF3と一緒だったということだと思います。例えば原 富治雄さんは生まれつき写真が上手い。どうしようもないくらい上手くて。あの人の下手な写真を見たことがないです。若い時も最初から上手かったから。それに比べて自分の古い写真を見ると、もう見たくないと思う。なんだこれは! みたいな。

PF:同時にレンズも進化している訳ですよね。

金子:あまりレンズと対話した覚えはないですね。レンズにうるさい人もいると思うけど、僕はあまり拘らなかった。速いもの、動くものを撮るから、なかなかレンズの評価はできない。こっちがやることが多いから。

でもレンズによってキレが違うというのは、確かにそうだなと思う。ドライバーの顔のアップを撮って、まつげや目玉の中の血管とか、その時はわからないけど、あとで古いの見るとだめだこれはと思ったりします。レンズは写真に直接影響しますから。

PF:金子さん以外の周りのカメラマンの方もF3に対して、一般的にすごい名機という評価なのですか。

金子:そう思いますよ。滅多に壊れないですし。雨で止まるなんてことは絶対なかった。当時のキヤノンは結構止まったけど、ニコンはなかった。素晴らしかったです。僕はニコンしか使ったことがないから本当のところはわからないんですけど、周りのカメラマンたちを見れば耐久性はやはりニコンの方が高かった気がします。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 1989年ロータス101/中嶋 悟。

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