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これこそ究極のスーパースポーツカー・ライフ?

伊東 和彦 ニッサン R390 GT1 “ストリートリーガル”仕様 2022.06.11

99回目のル・マン24時間レースが始まる

ル・マン24時間耐久レースの季節だ。ほかにもレースはたくさんあるが、私にとってはル・マンが別格だ。1923年に、自動車の開発を後押しするためには、昼夜を通じて24時間を連続高速走行すればクルマは鍛えられるだろう、そう考えたという主催者の心意気がいいからだ。

1923年当時は、自動車が連続して24時間を故障せずに高速で走りきることには、疑問符が付き、あのW.O.ベントレーさえも懐疑的だったそうだ。ル・マン以前にも24時間レースはアメリカでは前例があったのだが。

なにより信頼性の高さが勝利の必須要件であったから、1960年代の初頭くらいまでのマシンは、ワークスチームであっても、サーキット近くに設けた前線基地からメカニックの運転で公道を自走してル・マンまで向かうことがめずらしくはなかった。

1950年代に常勝だったジャガー・チームは、英国コヴェントリーの工場を出発して、ドーバー海峡をフェリーで渡り、ル・マンまで自走。優勝(完走)後には、同じルートを戻って凱旋したという。それが可能であるほど、ある時期まではレースカーとロードカーとの差は大きくなかったのである。

私の経験でもジャガーDタイプやフェラーリ250GTOは、その人目を引くであろう外観に腰が引けなければ、公道でのドライブは充分に可能なフレキシビリティーを備えていた。というわけで、私は、こうしたクルマが活躍した時代のル・マンが特に好きだ。

photo: Nissan Motor Archives 1998年ル・マン24時間レースで3位に入賞した32号車。32のカーナンバーを着けた3位入賞車の複製がもう1台存在する。

ル・マン・カーを公道へ

その後レースカーは急加速で専門的になり、性能も居住性も、ボディ形状も、なにもかもロードカーと解離していくが、昨今の天井知らずの高性能を備えたスーパースポーツカーを見ていくと、再びレースカーとロードカーが性能域で接近しているかのように思えてならない。

スーパースポーツカーの魅力の根源は非日常性にあるから、公道では試すことが不可能なほどの高い性能が必須なのだろう。

1970年代にル・マンで活躍したレーシングスポーツカー、たとえばポルシェ917は、レースに参加するために必要な公認(ホモロゲーション)を受けるために50台超が生産されたが、そのうちのごく少数は、手を尽くして公道走行を可能にするナンバープレートを取得している。アメリカのアラバマ州まで運んでロードカーとして登録した⋯⋯、そんな話題が自動車専門誌に掲載されたことを覚えている。

現代のレースカーでは、ロードカーへのコンバートは不可能になるのでは思っていたところ、1990年代後半のマシンに例があった。

2022年5月に開催されたコンコルソ・ヴィラデステのHPを見ていたとき、1998年ル・マンの入賞歴のあるマシン、日産R390 GT1のロードカー仕様が出品されていることを知った。

コンクール・デレガンスのクラスは、「Born for the Racetrack: “Win on Sunday, sell on Monday”」だ。いわゆる『レースに勝って、クルマを売る』という有名なフレーズを用いたクラスだ。

R390 GT1は、1998年のル・マンに4台がエントリーされ、32号車(星野/鈴木/影山)が総合3位/GT1クラス3位に、そのほか総合5位と6位、10位にも入り、全車完走という素晴らしい成績を残した(最も望まれた優勝は逃したが)。

このうちの31号車をドライブして6位に入ったエリック・コマスさんが、目映いばかりの純白の車体にウィングやエアスクープに赤いアクセントを加えた、“日の丸”カラーのR390 GT1をヴィラデステに持ち込んだのだ。

photo: Concorso d'Eleganza Villa d'Este/BMW Group Classic 英国のトム・ウォーキンショー(TWR)と日産の協業で誕生した。設計はトニー ・サウスゲイト、スタイリングはジャガーやアストン・マーティンで腕を奮ったイアン・カラム。赤くペイントされたウィングの翼端板にはR390のロゴが入っている。

真の「ロードカー」は1台だけだった

コマスさんが日本でレースをしていたとき、私は知人の紹介で会い、個人的に応援していたので、彼には勝手に親近感を抱いている。

グループCカーのレースは1992年シーズンをもって終了。1994年から、それを引き継ぐかたちではじまった国際スポーツカーレースでは、参加車両はGT1とGT2にクラス分けされ、GT1の公認には、25台の最低生産数を条件に定めた。

ル・マンはこれを受けて独自のローカルルールを設け、レース仕様の車両以外に市販用のストリートバージョンが(ストリートリーガルという)1台生産されていれば、LM GT1として出走を認めた。25台が1台と少なくなれば、参加台数が増えると考えたわけだ。

日産はこれを受けて1台だけロードカー(VIN:R3)を製作。英国で登録して「P835 GUD」のナンバーをつけ、R390 GT1にとって緒戦になった1997年のル・マン24時間レースで展示している。この時は赤いボディカラーだった。

1998年には、フロントエンドがマイナーチェンジされ、ダックテールスポイラーに改められて、青く塗り直された。日産は、もしバブル経済が破綻しなければ、100万USドル相当で少数を市販する構想を持っていたというから、このマイナーチェンジは市販を想定しての仕様変更なのかなとも思うが。

唯一のR390 GT1ロードカーであるR3号車は、現在では日産・座間の記念車庫に保管されている。

photo: Nissan Motor Archives 実際にイギリスでナンバーを取得した、1台だけのオリジナル・ロードカー。1997年には赤い塗色だったが、98年から青色になり、現在は座間の日産記念車庫に保管されている。

エリック・コマスのR390 GT1

話を元に戻すと、ヴィラデステに現れた、コマスさんの白いR390 GT1は、2台目の“ストリートリーガル”ということになる。ヴィラデステのHPによれば、元は総合5位に入った30号車であり、シャシーナンバーはR8(VIN:78009、1998年仕様)とある。R390 GT1はル・マンを走った2年間で、合計8台が造られ、2台が日産から個人に売却されているとされる。

ロードカー仕様では、VRH35L型ツインターボエンジンは、3495ccから257kW(350PS)/5200rpm以上と、490Nm(50.0kgm)/4000rpm以上を発揮すると発表された。だが、別の資料を見ると、レース仕様ではヨーロッパ市場で求められるすべての排出ガス規制に準拠しながら、6800rpmで410kWを発揮するともいう。コマスさんの R8は元がル・マン出場車そのものであり、デチューンされていたとしてもロードカーよりはパワフルだろう。

そのコマスさんは、今ではヒストリックカーレースの仕事をしているから、どこかでR390 GT1をそれらしく走らせているかもしれない。

かつで自分がレースで使ったマシンをロードカーに仕立て直して、スポーツカーとして使うとは、実にかっこよく、羨ましいではないか。

photo: Concorso d'Eleganza Villa d'Este/BMW Group Classic 靴を脱いで暖機運転中の様子。動画を観ると、車室内はロードカーらしく設えられていとがわかる。

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