STORY

Start from Scratch #03

「モーターサイクルからはじまったインダストリアル・デザイン前編」 ―ヤマハ発動機株式会社の設立とGKインダストリアルデザイン研究所の誕生―

高梨 廣孝 2022.09.06

音叉の旗の下に

連載第1回はこちら
高梨廣孝さんに関する記事一覧はこちら

“赤トンボ”のニックネームで親しまれているモーターサイクルYAMAHA YA-1は、ヤマハ発動機株式会社の出発点であるとともに、GKインダストリアルデザイン研究所の出発点でもある。

ヤマハ発動機株式会社の母体であった日本楽器製造株式会社は、第2次世界大戦の勃発とともに平和産業である楽器製造の道が閉ざされ、軍需産業に活路を見出すことになる。かつて手掛けていた航空機のプロペラの製造に再び着手し、ハミルトン式可変ピッチプロペラの製造権を得て、陸軍に対して高性能なプロペラを供給する。

敗戦によって日本楽器の軍需工場(佐久間工場)は、GHQ(占領軍総司令部)の命によって封鎖される。しかし、1951年に賠償指定を受けて保管されていた佐久間工場の工作機械が、平和産業に利用することを条件に、指定を解除されることになった。工作機械の活用は、様々な方向性が考えられたが、川上源一社長の決断でモーターサイクルの分野に進出することとなる。当時の浜松には、大小あわせて60のモーターサイクルを製造する会社がひしめいており、ホンダ、スズキ、丸正(ライラック)などの強豪メーカーがしのぎを削っていた。

1949年、38歳の若さで第4代目の日本楽器株式会社社長に就任した川上源一は、就任早々長期に渉る欧米視察旅行に出かける。帰国第一声は「これからの製造業はデザインの時代だ」と述べている。モーターサイクルの分野に進出するに当たって、最初に取った行動は、東京藝術大学の小池岩太郎助教授を訪ねてデザインの協力を依頼したことだ。この要請を受けて小池先生は、図案部のなかでインダストリアルデザインに興味を示す学生を集めて研究グループを組織する。

グループ小池、略して「GKグループ」がモーターサイクルの開発に着手したのは、昭和29(1954)年、夏休みも間近、今から68年も前のことである。

GKメンバーとYA-1。(左)リーダーとして手腕をふるった榮久庵憲司。後のGKデザイングループ創設者である。(右)写真提供:株式会社GKインダストリアルデザイン研究所

始動する「発動機」。機能美を追求するインダストリアル・デザインの先駆け

ヤマハ発動機は最初のモーターサイクルを開発するに当たって、性能の優れた外国車を忠実にコピーすることからスタートしている。いくつか候補に挙がった車の中からモデルにすべき車をDKW RT125(独)に決定する。ホンダやスズキが、よりやさしい原動機付き自転車からスタートしたのに対して、川上源一は性能の優れた車の開発を指示し、DKWを範としながらも、性能、デザイン共にDKWを上回る車をつくりたいと秘かに思っていた。

第二次世界大戦の戦地で大活躍したDKW RT125は、名車として高い評価を受けていた。最初にプロトタイプとして作り上げたYA-1は、RT125と比較して見ると瓜二つであり「学ぶことは、まねること」という言葉を忠実に実践している。

GKグループのメンバーに対して「このプロトタイプを部分的に変更することによって、ヤマハらしいオリジナルデザインにせよ」という難題が伝えられた。

彼等の目に映ったプロトタイプは、基本構成はよいとしても、全体の造形思想が余りにもオーソドックスであり、古典的な処理が多かった。そこで、エンジニアリングに絡む部品以外の、デザイン可能な部品をピックアップして、積極的にデザインに取り組むことにした。改良されたモデルには、ハンドルクラウン、ヘッドランプまわりの計器類デザインに時代を先取りした機能美を垣間見ることができる。

1954年、プロトタイプの完成。前列はヤマハ関係者。左より、根本文夫設計課長代理、高井義朗技術部長、小池岩太郎助教授、小野俊研究課長。後列はGKメンバー。 左より 柴田献一、岩崎信治、栄久庵憲司、曽根靖史、逆井宏。写真提供:ヤマハ発動機株式会社
プロトタイプ1号車と「7人の侍」。エンジン担当の根本さん、安間さん、竹内さん、車体担当の安川さん、内藤さん、金子さん、電装担当の外山さんの7名の開発メンバー。
1954年、乗鞍岳から浅間高原に向かう途中で小諸の懐古園に立ち寄ったテストチーム、自らもテストチームに参加した川上社長(右端)。写真提供:ヤマハ発動機株式会社

YA-1は、栗毛色の駿馬

“赤トンボ”のデザインで、日本のモーターサイクリストの心を最も捉えたのは、斬新なカラーリングであった。当時のバイクは、実用性が重んじられ黒一辺倒であったので、ここに新しいカラーを投入すればインパクトは大きいと考えられた。

グループのメンバーが、小池先生に相談したところ「バイクは陸を走る鉄の馬である。駿馬は栗毛がよい」と、元東京美術学校乗馬部長であった経験からアドバイスを受けた。栗毛とはどんな色か、メンバーは浜松の街中を探し求め、ようやくチョコレートのパッケージにたどり着く。YA-1のマルーン色は、チョコレートのパッケージをもとに色だしされている。

シートやハンドルグリップなどのゴム成型部品のカラーについても、再び小池先生のアドバイスを仰いだところ「雨に濡れた、パリの歩道の色にしなさい」とのことであった。小池先生の学生に対するアドバイスには、文学的な表現ながらも学生たちの独創性を育てようという温かい愛情が感じられる。

1955年に開催された『第1回全日本オートバイ耐久ロードレース』(浅間山高原レース)では、125ccクラスで「栗毛色」のYA-1は1〜3位を独占した。高性能な「駿馬」を実証したのだった。写真提供:ヤマハ発動機株式会社

「伝統と革新」。受け継がれて、発展するデザイン

スクラッチモデルでYA-1とSR400の比較を試みる。23年の時を隔ててある両者から「伝統と革新」が見えてくるようだ。

1955年に発売されたYA-1、1978年に発売されたSR400をこうして並べてみると、デザインの上では類似点が多い。バイクデザインを象徴的するタンクの形状は、tear drop形でイメージ的には共通である。何れのデザインも、バイクデザインの原型を踏襲したオーソドックスなデザインであり、「モーターサイクルの本質にかかわる魅力を持った」個性的なデザインと言える。

彫鍛金から、インダストリアルデザインの造形へ

1963年、全ての商品デザインをGKインダストリアルデザイン研究所に委託していた日本楽器(現ヤマハ)は、この年に社内にデザイン部門を創設する。筆者はこの呼びかけに応募し、日本楽器に入社する。

連載次回はこちら

連載第1回はこちら
連載第2回はこちら
高梨廣孝さんに関する記事一覧はこちら

PHOTO GALLERY

PICKUP