STORY

Start from Scratch #05

ドゥカティ cucciolo

高梨 廣孝 2022.11.06

ドゥカティのはじまりは、ラジオ。

その始まりは1926年。ドゥカティ 3兄弟(アドリアーノ、マルチェロ、ブルーノ)が、ボローニャに設立した、ラジオの真空管やコンデンサーなどの電気機器をつくる会社Scientifica Radio Brevetti – ドゥカティである。無線技術(特許)を事業としてラジオ受信機などを生産していた。創業当時には、ヨーロッパを代表とするモーターサイクルメーカーになるとは予想だにしなかっただろう。

創業当時のロゴと主力製品であったラジオ。成型合板を使ったモダンで典型的なイタリアンデザイン。

1920年代に誕生したラジオは、新しいメディアとして大衆文化を形成するほどに絶大な人気を得ていた。現代のウェブとIT産業と同じように、ドゥカティ社のラジオ受信機事業は成功し、着実に成長をしていった。しかし、第2次世界大戦が勃発すると、爆撃機の照準器などを生産する軍需工場となる。終戦を迎えた時点では1万人を超える大企業であった。戦後のイタリア産業は、I.R.I(イタリア産業復興公社)による私企業の国有化の道をたどり、巨額の資本投入と引き換えに政府の人間が経営の実権を握る体制となる。

ドゥカティ社もI.R.Iの指導の下、多くの従業員を養うために様々な製品の開発に着手した。そのひとつにコンパクトカメラがある。驚くことにこのカメラは、ハーフサイズで沈胴式レンズを装着するという斬新な設計であり、デザインも高級感あふれるものであった。日本で大ヒットしたハーフサイズカメラ、「オリンパス・ペン」の発売は1959年であるから、10年も早く画期的なカメラを開発していたのである。優れた企画力と開発力を示した商品ではあったが、復興に寄与する商品とはならなかった。

終戦5年後に発売されたことを思うと、時代を先取りしすぎた感もある。このカメラが成功していたら、今あるドゥカティと異なる歩みを進んでいたかもしれない。

いつの世も目端のきく人物はいるものである

ここで、時系列を戦時中に遡る。

1939年に勃発した第2次世界大戦は、ヨーロッパ全土を焦土と化し、道路や橋、鉄道網などの交通インフラは完膚なきまでに破壊されてしまった。戦争が終了した時点で必ず必要とされるのは、個人の移動手段であろうと秘かに構想を練っていた者がいた。トリノの弁護士アルド・ファリネッリは、軍需製品を生産していたSIATA社の技術者アルド・レオーニを起用して、既存の自転車に取り付けて簡便に移動できる小型エンジンの開発に着手する。戦争が終結する前に、48cc・4ストロークのエンジンが完成し、トリノの市街地をテスト走行している。

1945年7月、終戦を待ちわびたようにSIATA社は小型エンジンの販売計画を発表する。愛くるしい姿と、エンジンの音が子犬の鳴き声に似ているところから “cucciolo”(イタリア語で子犬の意)というペットネームがつけられた。トレードマークは、テリア犬がエンジンをくわえて疾走するという親しみやすいものにした。販売開始とともに、圧倒的な人気を博し、生産が追い付かない程の成功を収める。ファリネッリは、供給不足を解消するためにOEM生産を引き受けてくれる会社を探すことになる。

モーターサイクルへ。生き残るためのOEM生産が、ドゥカティの起点となる

I.R.Iの指導の下、様々な商品手掛けるも経営を支えるアイテムを見つけることができなかったドゥカティ社は、1946年SIATA社の要請を受けてOEM生産を引き受ける。1947年には、フィアット航空機部門のカンサ社(CANSA)もOEM生産に加わる。カンサ社は、T1と呼ばれるオリジナルのレオーニが設計したエンジンを改良して、車載のままエンジン内部の修理ができるようシリンダーが取り外せる新設計を行う。SC(SIATA-CANSA)と呼ばれたこのエンジンの評価は高く、ドゥカティ社もSCをさらに改良した新エンジンT2(1950年製の品番はT50)を設計してこれに切り替える。1948年の終わりには生産規模を大幅に増強して、OEM生産を解消して契約変更を行い、ついにモーターサイクルメーカーとして独立する。cuccioloのキャッチフレーズは“The cucciolo will take you anywhere!”この言葉通り、世相を反映して好調な販売を続けることとなり、ドゥカティ社の工場は連日フル生産となる。

ドゥカティ製cuccioloエンジンを取り扱う自転車店の店先に掲げられたホーロー製看板

1950年には次のステップとして、T2エンジンを搭載した本格的な完成車のcuccioloが生まれ、ライバルメーカーが簡便な2サイクルを採用していたのに対し、4サイクルOHV方式を採用し性能と耐久性で圧倒した。安定した性能を獲得するとスピード記録に挑戦し、1952年にはモンツア速度記録会において50ccクラスで平均速度80.5km/hをマークするまで成長する。その後のドゥカティ社の名声は、多くの人の知るところとなる。

自転車屋の倉庫に60年間眠っていた未使用のcucciolo T50エンジン

ドゥカティがモーターサイクルの世界に参入するきっかけとなったcuccioloは、機会があれば是非ともモデルとして作ってみたいと思っていたモーターサイクルである。資料を集めるのも難しいし、実車にお目にかかることは先ずないと思っていた。

ところが2011年の暮、耳寄りなニュースが飛び込んできた。

爆発的な人気を呼んだcuccioloは、かつてエンジン単体が全世界の自転車店に向けて輸出されていたのだ。日本でも輸入されており、そのうち横浜港に向けて輸出された1台が木箱に詰められた状態で自転車店の倉庫に眠っていたものを、愛知県にあるモーターサイクルショップが購入したというのである。

豊橋市から20kmほど北にのぼった山間の町、新城にそのモーターサイクルショップがあることが分かった。もう少し北に行けば、織田信長の鉄砲隊が活躍した長篠の古戦場である。電話に出た奥様は「cuccioloは店の宝ですから、決して他に販売することはありません、いつでもご覧に入れますからお越しください」との言葉から、自慢のコレクションとして大切に保管されていることが確認できた。

2012年2月22日、新城のモトサイクレット・サワダを訪問し、待望のcuccioloのエンジンと対面した。cuccioloの焼き印が押された木箱の中には、50ccのコンパクトなエンジンとともに、保証書、取り扱い説明書(イタリア語)、展示用のタグが入った完璧な状態で保存されていた。世界各国に60万台も輸出された1台が極東の地で売れ残り、長い間自転車店の倉庫の片隅で眠っていたのである。

木箱に収められた新品のcuccioloのエンジン。タグ、説明書、そして保証書もある完璧な状態で倉庫に保存されていた。奇跡!

早速エンジンの制作に取り掛かったが、エンジン単体ではなく、自転車に取り付けた状態のものにしたかった。それもドゥカティが完成車として1950年に発売したcuccioloである。

集めた資料は、写真ばかりであった。これをもとにcuccioloを制作して、2013年6月に開催されたAAF展(Automobile Art Federation)に出品した。実車を見ながら採寸できなかったことに、一抹の不安があった作品だった。

図面を起こす。エンジンユニット単体であったから、思う存分に採寸ができた。
奇跡の木箱の感動は忘れられず、スクラッチモデルで再現をした。
仮組み。当時の看板からトレースしたロゴとテリア犬のマスコットと組み合わせてみる。

奇跡は、2度起こる。

すると、信じられないことが起こったのである。来場者の中から「私、cuccioloを持っています。よろしければ、午後乗ってきます」。聞けば、オーナーは、会場(市ヶ谷の山脇学園ギャラリー)近くの神田にお住まいとのこと。その日の午後、排気音を響かせてcuccioloがやってきた。「イタリアの子犬の声は、こんなに大きいのか」と、かわいいテリア犬のマスコットから想像もつかない排気音に驚いたものだ。cuccioloを出展し、オーナーが来場し、実車を見ることになるとは!奇跡は2度も起きたのだ。

自分の制作したスクラッチモデルと実車を並べてみると、意外と忠実に再現されていることが分かり、写真の資料だけでも制作できる自信を得る機会となった。

AAF展へ出展したスクラッチモデルのドゥカティ cucciolo。(左)来場者から「では、乗って来ましょう」という申し出で実車に出会う。(右)思いもかけない出来事が2度もあった制作だった。

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