STORY

Royal Enfield 進化するクラシック(前編)

伊東 和彦 Royal Enfield 2023.05.24

Royal Enfieldは、現存するオートバイブランドで世界で最も古く、イギリス発祥のオートバイメーカーである。現在は、インドのオートバイブランドで、アイシャー・モーターズの一部門となっている。しかし、その歴史には溢れんばかりのストーリーが秘められている。前編では、第一次世界大戦以前の歩みに着目をする。

長く険しいの道のり

ロイヤルエンフィールドは、現存する二輪車専業のブランドとしては最も長い歴史をもっている。二輪車の生産を開始したのは1901年のことであり、2021年には120周年を迎えた。さらに言えば、ロイヤルエンフィールドほど数奇な道のりを辿ってきたメーカーは、世界広しといえども他には存在しない。この二つがロイヤルエンフィールドの強い個性の源になっている。

数々の名作を送り出し、栄華をイギリスの二輪車産業は1960年代になって急速に衰退していった。理由として考えられるのは、1950年代後半から急速に力をつけていった日本の二輪メーカー各社の存在を脅威として捉えなかったことである。徐々に販売を減らし、レースでは日本勢の後塵を浴びても、有効な立て直し策を実行することはなかったのである。

最盛期には世界最大の二輪メーカーとして市場を牽引していたBSA(トライアンフを含む)も例外ではなく、1972年に破綻。1973年にイギリス政府がおこなった救助策によって、ノートン・ビリヤース・トライアンフ社として復活したものの、立ち直ることはなく1978年に清算されてしまった。
それは、ロイヤルエンフィールドのモデル名を掲げたエンフィールド・モーターサイクル社にとっても例外ではなかった。1967年にレディッチ工場が生産停止に陥ると、70年にはブラッドフォード・オン・エイボンの工場も閉鎖し、71年に破産した。

だが、ロイヤルエンフィールドの名はインドに置いた子会社によって生き延びることに成功し、今日がある。まさに数奇な運命というに相応しいだろう。

photo: Royal Enfield 1901年創業のロイヤルエンフィールドは120周年を迎えた古豪。その歴史を探訪してみよう。

インドからの誘い

1952年、エンフィールド社はインドから軍用二輪車の大量受注を受けた。これに応えるため、現地ディーラーのマドラス・モーターズと提携し、インド東部のベンガル湾に面するチェンナイ(旧称マドラス)にエンフィールド・インド社を設立した。マドラスといえば、インドがイギリス領だったころには東インド会社の貿易拠点であり、もともとイギリスとは縁が深い場所だった。

マドラス・モーターズは、マドラス近郊のティルボッティユール工場で350ccモデルのライセンス生産を開始した。当初は、イギリスから輸入した部品を組み立てるCKD(コンプリート・ノックダウン)だったが、1957年からは部品の自社生産がはじまり、62年までには完全な国産化を果たした。
1995年には、ボルボとの合弁で産業用車両を扱うエイカー・グループ傘下に入って今日に至っている。現在、インドでは四輪車の普及が急増しているものの、依然として庶民にとっては二輪車が重要な生活必需品であり、国内での自動車生産台数全体の実に約8割弱を二輪車が占めている。二輪車メーカー全体での生産能力は年間2500万台といわれ、インドは世界最大の二輪車生産国の座にある。

日本のメーカーも現地生産をおこなっているほか、欧州のKTMやハスクバーナ、BMWでもインド生産車の比率が増し、BMWは現地のTVSモーターと提携してG310R系を生産している。こうした環境の中で、ロイヤルエンフィールドは350ccから650ccというインドでは上級のモデルに注力している。

左:1893年、エンフィールド・マニュファクチャリング社は拳銃のように精密に造られているとして、「Made Like A Gun」をキャッチコピーに用いることをはじめた。翌年からは、自転車の商品名を「ロイヤル・エンフィールド」と名乗るようになった。 右:軍用に開発されたモデルのひとつ“フライングフリー”。パラシュートによって輸送機からの投下を想定している。このように保護用ケージのまま投下する。2ストローク126ccエンジン搭載。

Made Like A Gun

エンフィールド社の二輪生産は1901年からと述べたが、さらに辿ると、1891年11月に起業家のボブ・ウォーカー・スミスとアルバート・イーディーが、拳銃や精密部品を手掛けるジョージタウンゼント社を買収したことが起点である。

買収当時、ジョージタウンゼント社では自転車の製造をはじめたばかりであった。自転車は新しい時代の移動手段として注目を浴びる存在であった。その2年後には、武器メーカーのロイヤル・スモールアームズ・ファクトリーから部品製造を受注。これを機に、社名をエンフィールド・マニュファクチャリングに、さらに1894年には自転車の商品名をロイヤルエンフィールドに改めると、拳銃のように精密に造られているとして、「Made Like A Gun」と謳った。

同じく銃器メーカーであったバーミンガム・スモールアームズ社(BSA)も、自転車(1888年)を経て、1910年から二輪車製造に進出。1919年にはBSAモーターサイクルとして分社化されている。

エンフィールド・マニュファクチャリング社は1898年に初の自動車を手掛けた。それは、自転車を2台、並列に連結したような構造のフレームを備えた、“クアドリシクル(Quadricycle)”と呼ばれる簡便なクルマで、タンデムシートの前方が乗員席、後方がドライバーというレイアウトを持ち、運転席の下方に単気筒エンジンを搭載していた。

1901年には、単気筒エンジンを搭載した二輪車がデビューした。それは前輪タイヤの上方、ハンドルの直前にエンジンを縦置きするという特異なレイアウトを持っていた。

左:1901年には、自転車生産の経験を生かしてモーターサイクルの製造を開始した。ステアリングヘッドにベルギーのミネルバ製1.5HP単気筒エンジンを搭載。長い革ベルトで後輪を駆動した。 右:1909年にはロイヤルエンフィールド初のVツイン・モデルが登場した。297ccエンジンは、スイスのモトサコッシュ社製だ。この写真を見ると、モーターサイクルが自転車から派生したことが理解できるだろう。後輪のスプロケットがホール並の大径だ。

アストンマーティンは遠い親戚?

話は横道に逸れるが、クルマ好きの方々に向けて、どうしても書いておきたいことがある。それは同社の四輪車についてだ。

1906年にエンフィールド社の四輪車部門が分離独立して、エンフィールド・オートカー社として新しくスタートすると、その2年後の1908年には、機械メーカーのオールディ・オニオン社と合併して、エンフィールド・オールディ・モーターズが設立された。同社では旧エンフィールド社が高級車部門を担当することになり、イタリア人技術者のアウグストゥス・チェザーレ・ベルテリが加わった。後にアストン・マーティンの社主となって名作を手掛ける“A.C.”ベルテリ、その人である。

ベルテリは工場の支配人として采配を奮う傍ら、レースがクルマを育てるとの信念を持ち、自らもレースに出場して生産車造りにフィードバックしていった。だが、彼の努力にもかかわらず、会社は経営難からは抜け出すことができず1925年に閉鎖されることになった。

独立を選んだベルテリは、改良したエンフィールド製シャシーに自ら設計した高効率な1.5リッターSOHCエンジンを搭載したスポーツカーを完成すると、生産化のために1926年に経営難から倒産したアストン・マーティン社を買収して改組。1.5リッター・スポーツカーの販売を開始した。この1.5リッターモデルが現在まで続く、アストンマーティンの祖といえる。いささか強引であることは承知だが、この事実から、アストン・マーティンとロイヤルエンフィールド・モーターサイクルは、遠縁の関係にあるといえるだろう。
<つづく>

1898年にはエンフィールド・マニュファクチャリング社として初の自動車を手掛けた。自転車を2台、並列に連結したような構造のフレームを備えた、“クアドリシクル(Quadricycle)”と呼ばれる簡便なクルマだ。タンデムシートの前方が乗員席、後方が運転車席になる。

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