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フォードGT40接近遭遇:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#008

伊東和彦/Mobi-curators Labo. フォードGT40 2024.01.20

レース前の金曜日はFISCO徘徊の日

輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し”の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。

「え、ええ、ああ! 『フォードGT40』があるじゃないか」
いくらフジスピードウェイ(あのころ通った世代には、FISCOと呼んだほうがスッキリする?)とはいえ、それは正に目を疑う光景だった。

1970年代半ば、すでにGT40は現役バリバリではなかったが、本物のレースカーを間近で見られたことで、私たちはひどく舞い上がった。

正確な時期は分からないが、おそらく1975年のある日(秋だった?)、私たち仲間はいつものように、その週末に大きなレースを控えた平日のFISCOに来ていた。レース直前の金曜日には、数百円の入場料だけで済むにもかかわらず、いいクルマが目前で見られ、時にはチームメンバーと交流できるという恩恵もあるのだ。

これに味をしめた私たちは、大きなレースがあるときは、いつも仲間と示し合わせ、大学での授業をやりくりして(どうしたかは想像されたし)、だれかのクルマに乗り込んでFISCOを目指した。ホンダZの空冷型に4人乗って行くことが多かった記憶がある。

GT40の名が、車高が40インチであることに由来していることは専門誌で知っていたが、それにしても低いと驚かされた。せっかくの機会だから、横に立ってシャッターを切ってもらえばよかったと、帰路に後悔した。

夕暮れのパドック内ガソリンスタンドの横に、うずくまるように停まっていた低いクルマは、シルバーのペイントを施されたGT40だった。VWをベースにしたGT40もどきの「アベンジャーGT」でないことは、遠目でもわかった。日本にGT40があることも知らなかったから、いささかオーバーに言えば幻想を見たようであった。

室内を覗き込むと、フロアにはカーペットが敷かれ、ナンバープレートはなかったが明らかに公道仕様に改装されたことは素人目にも理解できた。このGT40(1077)がヤマハ発動機によって輸入され、レースカー製作の研究教材にされたことは、その直後に発売された自動車誌で知った。ここに掲載したのがその時のカットだ。今となっては私の大切な文化財産である。

ラジエターの換気を促進するためだろう。2基の電動ファンが備えられていた。

雑誌の編集記者に就いて、ヤマハのエンジニアに話を聞いたりして、なぜGT40を購入したのかを知りたくて、多くの方に聞きまわったくらい、GT40を目の当たりにした衝撃はあとまで尾を引いていた。

公道用とするためだろう、覗き込むと大きなサイレンサーが備わり、真上のボディパネルの塗装が焼けていた。これを見て感心したり、熱量に驚いたりであった。

1980年代後半になって、このGT40がレストアされ、著名コレクターのガレージに入ったとき、私は懇願してコクピットに座らせていただき、とても感慨深い気持ちになったことを覚えている。現在では、このGT40はデリバリーされた時のカラーリングといわれるイエローにホワイトのストライプに戻されて、グッドウッドなどヒストリックカーレースを走っていると聞く。これが本来の姿なんだろうな。英国で走る姿を観てみたいと思う。

文中にアベンジャーGTの名が出たのでここに掲載しておく。1968年に開催された第1回東京レーシングカーショーでRQ(レーシング・クォータリー)のブースに展示されていた。メタリックブルーだった。アベンジャーGTはカリフォルニアのファイバーファブ社が製造したキットカーだ。アメリカンV8の搭載が可能なモデルもあるが、ここに掲載した車両は“5ナンバー”であることから、VWビートルのシャシーをベースにしたのだろう。

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