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伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#43 “外車ショー”はクルマ小僧を興奮させる場所だった

伊東和彦 ランボルギーニ 2026.02.24

一挙に2台のランボルギーニを見た日

昨今、ランボルギーニ・ミウラを海外や国内のクルマメディアで多く見かける。理由は1966年3月1日、ジュネーヴ・モーターショーで初公開されたそのクルマが、2026年に生誕60周年を迎えるからだ。誕生にまつわるインサイド・ストーリーであったり、デザイン論であったり、何誌か見ただけで満腹になるのは間違いない。

そうしたなかで、日本におけるミウラの話題を発信している例は実は少ない。日本では、ある時期に子供たちを熱狂の渦に巻き込み、一種の社会問題にもなったスーパーカーブームでの重要キャストであり、それを省みるのも一興かもしれない。それは世界的に見ても特異な現象だったからだ。

この私はといえば、スーパーカー世代より年齢が高かったゆえに醒めた目で喧噪を眺め、専門店を迂回するようにしていた。とはいえ、いい機会なので、世間とはちょっと違う角度から“生誕60周年ミウラ合戦”に参加してみることにした。

 60年目のミウラに、遅れて手を挙げる

連載の41回、42回、そして今回と3回連続のランボルギーニ・ネタになってしまい、またミウラ・エンスージアストには、“◎○のツマ程度”だろうが、しばしお付き合いを願いたい。いつもの写真帳の中から引き出した、1969年11月に撮影した日本初上陸と思われるミウラの画像を見ながら綴ってみる。クルマ好きの中学生が限られた条件でストロボもなく撮影したモノクロ(ASA100)での数カットであり、さらに簡易スキャンゆえに画質がプアなことはご容赦いただければ幸いだ。

1969年11月14〜18日、東京・晴海の国際見本市会場で「1970年東京オート・ショー」(日本自動車輸入組合)、通称名、外車ショーが開催された。前々回からこのショーに通いはじめていたクルマに詳しい帰国子女のIくん、クルマデザインに詳しいMくんと私の3人クルマ好き中学3年生は、最終日の18日に朝から会場に向かっていた。彼らが私にとっての知識の泉だったから、こうした時は必ず誘っていたのだ。

 予備知識ないまま、晴海でいきなり心臓を掴まれる

広いドーム型会場の中には2台のランボルギーニ、赤いミウラとライトブルーのエスパーダが置かれていた。友人が購読する自動車専門誌で見せてもらったことのある、やけに低いクルマと4人乗りとは思えないクーペを前にして、私の目と心が奪われたという表現がぴったりの驚きだった。現在のように観覧者を呼び込むための事前告知が希有だった時代であり、なんの予備知識を持たないうえでの会場入りだったから、驚きの度合いは桁違いだった。

ライトブルーのエスパーダと2台が並んでいた。ポルシェで知られるミツワ自動車がランボルギーニを扱うことはこの場で知った。
たいへんな人集りで、なかなか近くに寄れなかった記憶があるが、けっこうな枚数を撮影している。

この連載の第2回でランボルギーニの日本総代理店がポルシェで知られる三和自動車(後にミツワ自動車)であり、ボディカバーが掛かった400GTらしきクルマを目撃したことは記したが、私たちにとっては、“外車ショー”が初のランボルギーニ目撃体験になった。

I君からは、彼がアメリカから携えてきた雑誌を読み聞かせてもらい、イタリアの新興メーカーについての簡単な知識は持っていたが、聞くと見るとでは大違いだった。なにより印象的だったのは、ロードカーとしては未だかつて目にしたことのない車高の低さとスタイリング、パビリオン内でも際立つボディカラーの鮮やかさだった。特に赤は日本では見たことのない色合いだった。雑誌のカラー写真で見たのはとはずいぶんと色合いが違うなあと思った記憶がある。なにしろ1960年代の日本では赤いボディカラーのクルマ(乗用車)を街で見ることは希であったからだ。

リアの熱気を抜きながら後方視界を確保するルーバーをしげしげと観察した記憶もある。ルーバーは、日本でもクーペモデルの後付けアクセサリーとして、さまざまなモデル用が登場した。

 赤と青、2台の稲妻

人垣を掻き分けて結界ロープぎりぎりまでクルマに近づいていた私たちにとって幸運だったのは、ミウラに興味を示した紳士の求めに応じて、クルマの横に控えていたディーラーの担当者がフロントカウルとドアを開けたことだった。ガラス越しでは見えづらかった中央部分を布で貼ったシートの形状や、写真ではわかりにくかったダッシュボードの立体感がよくわかり、座ってみたいなあと思った。

車室内を見たいと思っていたとき、係員によってドアが開いたが、写真を撮ることも忘れて見ていたようで1回もシャッターを切っていない。
フロントカウルも開けられた。人垣を掻き分けて結界ぎりぎりまでクルマに近づいていた私たちにとっては幸運の一瞬だった。

簡単な諸元とともに添えられた価格表にはミウラが1200万円、エスパーダが1150万円と書かれていた。発売されたばかりのフェアレディZLが108万円であり、ランボルギーニとは、それはそれは高価なクルマなのだと感じた。蛇足ながら、私にとって当時の夢のクルマだったホンダN360は31万3000円だったのだ。

鮮やかなブルーにペイントされたエスパーダの存在は印象に残った。こんな車高が低いにもかかわらず4座席であることにも感心した記憶がある。私にとってはミウラ以上の衝撃だったかもしれない。

 六本木へ続く糸

その後、クルマ業界の一角に居場所を作ってから、当時、ミツワがランボルギーニを手掛けるに至った経緯を知ることができた。そのうちのキーマンとなったのは、1953年にポルシェ正規輸入第1号を手に入れたM氏であり、縁あって話しを聞く機会に恵まれた。氏は海外経験が豊富なエンスージアストであり、帰国後に海外の雑誌で知ったランボルギーニが高性能車の生産を開始してから興味を抱いていたという。

懇意にしていたミツワに代理店契約取得を勧めたといい、1968年には日本にとって初のランボルギーニとなった400GT2+2が顧客であるU氏の元に納まっている。間もなくミウラ、エスパーダ、イスレロ(400GTの後継車)という、当時の最新カタログモデルが全車輸入された。

当時を知る方からの伝聞だが(当時の自動車専門誌でも書かれている)、「1970年東京オート・ショー」には空路で運ばれてくるイスレロも展示される計画であったものの、間に合わなかったという。実現していれば総合カタログの表紙の陣容になっていたのだろう。なお以前にもこの連載に記したが、フェルッチョはミツワとの契約締結時(おそらく)に来日しているようで、同社の六本木ショールームで撮影された写真が残されている。

当時の総合カタログの表紙にはラインナップが居並ぶ。空輸が間に合っていれば、「1970年東京オート・ショー」でもこうなっていたかもしれない。ここに掲げた2種のカタログはだいぶ後になってミツワのOBから入手したものだ。

 ショールームの匂いまで想像する

話をミウラに絞れば、ショーの華を務めた日本への新車輸入第一号車は、まもなく多くのエンスージアストを顧客する伊勢丹モータースを通じて販売され、1972年に『CG』誌上でギブリ、デイトナとともに大きく取り上げられているのでご覧になった方も多いことだろう。

ミウラを扱った書籍で当時の生産記録簿が公開されたが、それによると、デリバリー先が“MITSWA”とある1台が見つかった。これは“MIZWA”もしくは“MITSUWA”の誤植なのだろう。1969年9月29日生産完了のシャシーナンバー“4341”がそれと判断できる。車体色はRosso corsa、内装がskay neroとある。ちなみに10月3日生産の“4280”もイタリアでの販売後にミツワ経由で日本に上陸したという。

私は日本上陸一号車のミウラ(4341)、濃赤色の400GT、赤いミウラ、青いエスパーダ、シルバーのイスレロという4台の初上陸車の行方を知らないが、日本のランボルギーニ史という観点からは重要な存在であることは間違いないだろう。
このときにミウラとエスパーダを見て驚いた経験は私のクルマ好き人生でのマイルストーンになったのは明らかだった。マルチェロ・ガンディーニが来日するとの情報を得た際には、なんとしても話を聞きたいと考えて、想いを遂げた。この話はいずれ記したいと思う。

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