STORY

マンタがトリノからやって来た:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#011

伊東和彦/Mobi-curators Labo. イタルデザイン・ビッザリーニ・マンタ 2024.03.09

ジウジアーロのショーカーを凝視した日

輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し“の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。

1968年、「第1回 東京レーシングカーショー」が東京・晴海の国際見本市会場で開催された。主催団体は「オートスポーツを楽しむ会」を名乗り、会長は作家で1968年に参議院議員に当選し、東京都知事をも務めた石原慎太郎氏だった。

日本で初の大規模なレース関係のショーであり、78台ものさまざまなレーシングカーが展示され、2日間の会期中に6万2000人が訪れたという。

私は自動車専門誌の誌面でショーの開催を知ると、期待に胸を膨らませて友人と出掛けることにした。

入場してみると、“晴海”の象徴になっていた、お椀を被せたような柱のないドーム会場ではなかったものの、ホール内の人口密度の高さと熱気に驚かされた。この時の写真は何枚かあるから別に紹介することにしたい。

第1回の熱気と内容の濃さに気をよくして、翌1969年の第2回にも行った。狭い会場に所狭しと並んだレーシングカーに混じって、異常に低く、異質なスタイリングのクルマに引き寄せられた。展示ブース自体は地味だったが、そこだけに強力なスポットライトが当たっているように感じられた。磁場が違う、そんな雰囲気であった。

事前には知らなかったので、前年の1968年トリノ・ショーで公開されたばかりのショーカーが展示されていたのには驚いた。

それは前年の1968年トリノ・ショーで公開されたばかりの、「イタルデザイン・ビッザリーニ・マンタ」であり、ついこの前、自動車誌の誌面で見たばかりだった。

デザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロの名前や、彼が所属したカロッツェリア、ベルトーネやギアでの作品はいくつか知っていたものの、彼が手掛けたショーカーの実物を見るのははじめてのことだったから、急遽、カラーフィルムを装填するほど興奮したことを今でもよく覚えている。

ビッザリーニ・マンタは、1968年2月13日にジウジアーロがアルド・マントバーニらと設立したイタル・デザインにとって初となる作品であり、トリノ・ショーをデビューの場に選び、ショーまでのわずか40日間で完成させたという。

イタルデザインが所蔵している現在の姿。タイトルに使った写真は原寸大のレンダリングの横に屈むジウジアーロ。(Italdesign Archives)

トリノでの公開時は鮮やかなグリーンであったが、東京ではオレンジ色に代わり、黒と白の2本のストライプを装っていた。
その未だ視たことのない奇抜な配色にも圧倒された。

マンタのスタイリングの特徴は見てのとおり、ボンネットとルーフのラインが連続していることだ。なおかつフロントウィンドウの角度はほぼ平坦(発表によれば15度)である。

フロントウィンドウ下のルーバー越しに、前方視界が確保されているスタイリングに感心した覚えがある。
リアウィンドウはほぼ水平で、垂直に切りたった(コーダトロンカ)面に横長のウィンドウがあった。

全幅1855mmと当時としては驚異的に低く幅広く、ドライバーシートを中心に配置した3名乗であったことも驚きだった。

ちなみにセンターステアリング3座席のレイアウトは、1965年にピニンファリーナが製作したプロトタイプ、「フェラーリ365P」に先例があり、のちにゴードン・マーレーが市販車の「マクラーレンF1」で採用している。

ビッザリーニP538のマルチューブラーフレームを使う。ミドシップのエンジンはシボレー製V8。(Italdesign Archives)

私たちは、トリノ・ショーで初公開されたばかりの本物のショーカーが、空路、東京にやってきたことに感動して盛り上がり、自宅に帰ってからも、興奮さめやらずであった。その代償として、明日からはじまる期末試験のための一夜漬け勉強が捗らなかったのではあるが。

マンタが使用したシャシーは、ジョット・ビッザリーニが手掛けたP538コンペティション・カーのマルチューブラーフレームといわれた。P538のシャシーは4台分(3台プラス追加の1台)が製作されたが、マンタに使われたのはその第3号車であり、スモールブロック・シボレーV8を搭載して1966年ル・マンではカーナンバー10を付けて出場したというヒストリーがある⋯⋯などの詳細は、雑誌の仕事をするようになって、記事担当をしたときに知った。

センターステアリングの3座席だ。5MTは右手で操作する。(Italdesign Archives)
マンタのエンブレム。

迷子になっていたマンタ

マンタは東京から送り出されたあと行方不明になってしまい、10年後に発見されたことを知ったのは、雑誌記者になった私が翻訳原稿を校閲・校正していた時であった。

東京に来る前、1968年末にトリノで初公開されたマンタは、イタル・デザインの発足を告知する任務を任されてアメリカに渡り、ニューヨーク・ショーのあとロスアンゼルス・オートエクスポにも足を伸ばした。その一環で、東京レーシングカーショーに立ち寄ったのだった。

東京港からイタリアに向けて送り出されたあと、忽然と姿を消したマンタは、約10年後にイタリアの港で所有者が明らかでない状態で発見された。

報道によれば、受取人がわからなかったことから、税関当局によって人知れず競売にかけられた可能性があるという。詳細は明らかにされていないが、10年間もコンテナの中で眠っていたのだろうか。

1980年ごろにイタリア人が数年間にわたって所有してからスウェーデンに売られ、1990年代後半に所有者が亡くなるまで北欧に留まっていたという。

マンタが生存しているという事実が広まったのは、スウェーデンを離れてテキサスのコレクターの所有になってからであり、ペブルビーチやヴィラデステのコンクール・デレガンス、イタルデザインの創立記念セレモニーでその姿が披露された。数奇な運命を辿ったマンタであった。

東京で鑑賞し、雑誌編集者になって、その顛末記事にかかわるなど、なにか私のクルマ生活に因縁のあるクルマではないか、勝手にそう思っている。

PICKUP