STORY

Ferrari Purosangue登場に思うこと

Ferrari Pininfarina “Pinin”が示したコンセプトを回想して

伊東 和彦 Ferrari Pininfarina 2022.10.12

プロサングエ(Purosangue)の広報資料を見て

フェラーリ新モデル、プロサングエ(Purosangue)の4ドアボディの生産化について、Ferrari Pininfarina “Pinin”が示したコンセプトを回想しながら考察していく。

“There is nothing new under the sun.”という言葉が好きだ。元は旧約聖書コヘレトの言葉の第1章9節に有名な言葉がある。
『この世の中には新しいことはなにもない』、『どこかに先例がある』そうした意味であることから、現代と過去の事実を繋げたストーリーのタイトルに使われる(回顧録のようなものだ)。

プロサングエのインストルメントパネル。近年のフェラーリの定石に従っている。

先日、正式発表されたフェラーリの新モデル、プロサングエ(Purosangue)の広報資料を見て、突然、「nothing new⋯」が私の頭に浮かんだ。資料にはこう書かれていた。

「フェラーリは本日、ラハティコ(ピサ)のシレンツィオ劇場の壮大な雰囲気の中で、75年のプランシングホースの歴史で初になる、4ドア、4人乗りの車であるプロサングエを発表しました」

リアドアを開くとスポーティーな設えのリアシートが現れる。

「(中略)75 年にわたる最先端の研究の集大成として、フェラーリは世界の舞台で比類のない車を製作しました。パフォーマンス、運転の楽しさ、快適さが完璧に調和して共存するだけでなく、跳ね馬の象徴的なDNA。これが、イタリア語で「サラブレッド」を意味するプロサングエという名前が選ばれた理由です⋯⋯」と。

確かに、4ドアボディの生産化はフェラーリにとっては初であるのだが⋯⋯。

フェラーリ初の4ドアモデルとなったプロサングエは、観音開き式のリアドアを備える。

1980年トリノショー

フェラーリが4ドア・モデルを思い描いたことは、過去に1回はあった(秘密の領域でのことは不明だが)。

ピニンファリーナが同社の50周年を記念して、1980年のトリノショーで公開した“Pinin”がそれである。それゆえに、カロッツェリア・ピニンファリーナの創業者であるジョヴァンニ・バッティスタ・“ピニン”・ファリーナに由来した名を冠し、同社とは強固な関係で結ばれたフェラーリをベースに選ぶことは当然の結果であった。

400GTをベースに製作された。WBは50mm長い2750mmである。全幅1820mmと全高1310mmとに僅かに幅広く、低い。

Pininはトリノのあと、フェラーリにとって最大のマーケットであった北米のショーでも公開されたことから、フェラーリもついに4ドア・サルーンモデルを生産か?”と人々を驚かせたものの、1台限りのコンセプトカーとして終わった。

1980年のトリノショーでピニンファリーナが提示したフェラーリの4ドアモデル、ピニン。フェラーリ伝統の格子型グリルを備える。

Pininのコンセプト

ピニンファリーナが意図したのは、地元イタリアでは「マセラティ・クアトロポルテ」(第3世代)が、イギリスでは斬新なウイリアム・タウンズが描いた斬新なスタイリングで人目を引いた「アストン・マーティン・ラゴンダ」が、ワールドワイドでは「メルセデス・ベンツ450SEL 6.9」がカバーしている、高性能かつ高級な4ドアサルーンであった。それを“フェラーリの名を冠して誕生させるコンセプトカー”として示すことであった。

ピニンファリーナによるフェラーリ・“クワトロポルテ”計画は、エンツォとフェラーリでゼネラルマネジャーの地位にあったアルツァーティも同意したうえでの進行であったというから、準公式プログラムであったといえよう。ちなみに当時のエンツォは、親会社であるフィアットの意向で、「フィアット131ベルリーナ」(4気筒2ℓ)にショファー付きで乗っていた。

スタイリングはピニンファリーナのレオナルド・フィオラバンティの元で、ディエゴ・オッティナが具体化を手掛けたといわれている。オッティナは後にテスタロッサと348も担当することになる。

メカニカルコンポーネンツは、シャシーは400GTをベースとしながらも、エンジンは400GTの4.8リッターV型12気筒に代えて、365GT4/BBで登場した水平対向(180度V型)12気筒が搭載された。60度V12搭載では不可能な、より低いボンネットラインを求めた結果から選ばれたという。BBでは5段マニュアル・トランスミッションはエンジンの下側に配置されたが、Pininでは400GT用の5MTを搭載する計画だった。

ピニンのベースとなった400GTは充分な後席スペースを持つ高級で高性能な2+2グラントゥリスモとして好評だった。その開発の過程では燃料噴射や3ATを備えた。

実際にはPininは走行ができないモックアップの域にあり、駆動系は未完成の状態であった。実際、ピニンファリーナはモックアップ段階から先に進める計画を持っていなかったといわれている。

モックアップとはいえ、エンツォ・フェラーリはPininのできばえに満足し、量産についての検討開始を望んだものの、フェラーリの親会社であったフィアットのギデラ社長の判断で計画は見送られたと伝えられている。スポーツカー・メーカーとしてのフェラーリのブランドイメージが損なわれることと、高級サルーンとして必須なクオリティが保たれるが、否決の理由であったと言われる。
その決断が下されたのは、1980年のフェラーリの年次取締役会であったというから、もし、このときに計画推進が決まれば、1980年代半ばには、フェラーリ・クワトロポルテが誕生していたことだろう。

ピニンの後席。デジタル表示の計器板を用いたアストンマーティン・ラゴンダと同様にデジタル・ディプレイが一部に用いられ、後席にもドライブコンピューターを備えた。生産化されればエンツォの玉座になるはずだった?

量産化断念とその後のPinin

こうして役目を終えたPininのワンオフ・ショーカーは1980年代のある時期に、ベルギーでフェラーリ他を扱うディーラーとレーシングチームを営むジャック・スウォーターに払い下げられた。

現在は苦心の末に走行可能な状態に仕上げられて、アメリカのコレクターの元にある。

走行可能な状態に仕上げたのは、2008 年にスウォーターからオークションで入手した人物で、元フェラーリのマウロ・フォルギエリが参加するオーラル・エンジニアリングが作業を担当した。モックアップだったエンジンを512BB用のもの(F102B)に換装し、400GT5段MTトランスアクスルを組み合わせた。さらにシャシーやサスペンションも改良を受けた。

ちなみにPininのシリアルナンバー(フェラーリの正式な製造一連番号)は、ピニンファリーナの公式本や、後にオークションに掛けられた際にもブランクであったが、現在では1982年頃の20263であるとしている記述がある。

ヘッドライトはルーカスが開発に関与した多重反射鏡式で、広い照射角を得ていた。リアは伝統の丸型ではなく、カレロが製作を担当した角形で、シルバーに着色されてボディに一体化された。
フェラーリの量産型としては初となる2+2シーターとして1960年に登場したモデルが250GTEである。単に2座モデルに後席を加えたものではなく、エンジン搭載位置から考慮されたことで、極めて洗練されたグラントゥリスモに仕立てられた。

1980年のトリノショーで提示されたフェラーリの4ドアコンセプトは、それから42年後のプロサングエで実現した。時代は移り変わり、SUV(フェラーリはそう言っていないが)全盛の今日、初の4ドア・フェラーリを実現したプロサングエは大きなヒット作になるに違いない。

過去のPininと最新のプロサングエのあいだには、4シーター、4ドア、12気筒エンジンというキーワード以外、なんら繋がりはないが、クルマのファンなら“どこかに先例があるもの”。そうお思いにならないだろうか?

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