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レーシングV12に初遭遇した日:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#010 フェラーリ 512S ベルリネッタ

伊東和彦/Mobi-curators Labo. Ferrari 512S ベルリネッタ 2024.02.26

輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し“の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。

現場にいてこその香りとサウンド

前回のこのコラムでフェラーリ365BBについて記したが、今回もフェラーリだ。だが、時代は遡って、1970年9月の富士スピードウェイでのできごとだ。

小遣いをやり繰りして、クルマ好きの友人とFISCO(当時は富士スピードウェイのことをこう呼び、いまでも私にはシックリする)に行くようになったのは、競技としてのレースを見るというより、疾走するクルマを見ることが主な目的だったと、今になってそう思う。

レース展開よりもマシンが走っている姿を観たい、その一心だった。巧みなドライビングで目の前を走り去るクルマとエグゾーストサウンド、そして鼻腔を刺激する“かぐわしい香り”(専門誌の受け売りで知った言葉だが、そういえば私も何度か誌面で使っている)だった。

走行中のカットはフェラーリのアーカイブで見つけた。富士スピードウェイ名物の30度バンクに進入を図る512S。向かって左は風戸 裕の元ワークス・ポルシェ908Ⅱスパイダー。908の後方は総合2位に入った北野 元のニッサンR380-Ⅲ。(photo=Ferrari Archives)

自動車専門誌の誌面で、1970年9月6日開催の『‘70富士インターナショナルゴールデンレース フジインター200マイル』に、イタリアからフェラーリ512Sがやって来ると知ったとき、まだ聴いたことのないレーシングV12エンジン、それもフェラーリのそれがどんな音を出すのかと、がぜん興味が沸いた。

いつもクルマ関係のイベントに同行してくれている帰国子女のI君は、アメリカ西海岸仕込みの、私とは比較にならないほどクルマの知識があるばかりか、フェラーリ好きであったから、512Sを観に行くことは簡単に決まった。そのI君は社会人になってから、アメリカやイギリスの著名フェラーリ研究家と情報交換をするという、世界中のフェラリスタから一目おかれた存在になったほどの存在だった。

どのコーナーでV12サウンドを聴くかが、車中での最重要課題になった。1時間45分程度と予想されるレース時間をどう効率よく使うかだ。いつものように安価な自由席しか私たちには選択肢はないが、第1コーナー出口あたりからヘアピンカーブに移動し、余裕があったら、ストレートをどこかから覗けばいいかなという計画を立てた。

フェラーリが勝った!

私は同年のデイトナでのデビュー以来、リタイアが多い512Sだから、完走しないことは充分想定していた。I君は、「フェラーリに限ってそんなことはない」と、期待を込めて激しく首を振るが、日本のレースにやってくる海外勢は日本を甘くみているのか、鳴り物入りで1969年の日本GPにやってきたポルシェ917には、お互いにガッカリさせられた経験がトラウマになっていた。

残されているベタ焼き(なんとフィルムが見つからない!)を検証すると、ヘヤピンで金網に邪魔されながらの数カットがあるのみだが、リタイアする前にV12の咆哮を聴いていることがわかる。

ヘアピンカーブでずっと観ていた記憶がある。観客席からではどうしても金網が写り込んでしまうため、あまり熱心に撮影せず、ずっとレーシングV12サウンドを聴いていた。

I君も私も驚喜したのは、ジャン・ピエロ・モレッティがドライブした512Sがポールポジションから独走して優勝したことだ。
予選2位は、風戸裕が買い入れた元ポルシェ・ワークスカーの908Ⅱスパイダーだったが、風戸がタイヤトラブルで序盤にリタイアしなかったら、競り合いも見られただろうし、結果は違っていたかも知れない。

レース内容は物足りなかったが、大枚を投じて観戦した甲斐があったと満足しながら帰宅し、会心の1枚は暗室で大きく引き伸ばして部屋に飾っていたほどだ。

2位のR380-Ⅲに2周の差をつけて独走してゴールする512S。(photo=Ferrari Archives)

このときやってきた512S、シャシーナンバー1032は、1970年シーズンにプライベートチームに販売された4台のうちの1台だった。買い入れたのは建設会社の経営者を父に持つアマチュア・ドライバーでスクデリア・ピッチオ・ロッソを率いるコラード・マンフレディーニで、“1032”のレースヒストリーは1970年の世界スポーツカー選手権の開幕戦であるデイトナ24時間からはじまる。ジャン・ピエロ・モレッティと組み、7位を走っていた早朝にサスペンション・トラブルでリタイアしている。

ウィナーのジャン・ピエロ・モレッティ(左)と、チームオーナー兼ドライバーのコラード・マンフレディーニ。(photo=Ferrari Archives)

詳しくは後述するが、1970年1月、フェラーリは512Sをデイトナ24時間レースに間に合せるべく、短期間でホモロゲーション取得に必要な25台の生産・申請を終えるという綱渡りのような状態で迎えた実戦だったから、カスタマーチームが初戦のデイトナで好成績をあげるのはむずかしかっただろう。

その後、マンフレディーニたちは1032を携えて世界中を転戦しはじめたが、極東のローカルレースとはいえ、同年9月の日本で勝てたことは嬉しかったのではないか。

512Sのこと

話は前後するがフェラーリ512Sについて簡単に記しておきたい。512S誕生の発端となったのは、FIA傘下のレース統括組織のCSIが1968年から、3ℓ以下のプロトタイプ(グループ6)と5ℓ以下規定のスポーツカー(グループ4)で共通のチャンピオンシップを争うと発表したからだ。

グループ6には生産台数の規定はなく、対してグループ4スポーツカーには、25台の生産義務あるものの、実質的にはプロトタイプとかわりはなかった。排気量が大きいグループ4のほうが有利ではあるが、認定に必要な25台以上の生産義務を果たすためには、多大な出費を伴うことがネックであった。多額の開発・生産コストを多少なりとも回収するためには、プライベートチームに大半の車両を販売する必要があり、そのためのセールスポイントは、“買い得な価格の勝てるマシン”であることが必須だった。

これを受けて、フェラーリ・ワークスは1968年のスポーツカーレースの一時活動休止を選び、69年にはF1用の3ℓV12エンジンをデチューンして搭載した312Pを投入。さらに1970年にはグループ4カテゴリーの5ℓスポーツカー、512Sのホモロゲーション取得を済ませた。言うまでもなく、直接の好敵手はポルシェ917だった。

512Sは1969年後半に、マウロ・フォルギエーリによって短期間で設計され、3カ月間にホモロゲーションを取得した。パワーユニットは、550ps(発表時)を発揮する4993ccのV型12気筒を搭載した。

フェラーリ512Sは、1970年の開幕戦、デイトナ24時間に間に合わせてホモロゲーションの取得を終えた。これはホモロゲーション取得時のモデルだ。(photo=Ferrari Archives)

デイトナ24時間レースでマリオ・アンドレッティ/アルトゥーロ・メルツァリオ/ジャッキー・イクス組が3位に入賞してデビューを果たした。だが、512Sの戦闘力はポルシェ917にはおよばず、フェラーリにとって重要なル・マンでの優勝はできずに終わった。

512Sの後方、カーナンバー1は酒井正のローラT160。ポルシェが戦列を去ってからはローラが2位を追走していた。(photo=Ferrari Archives)

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