百科事典のなかの「じどうしゃ」:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#38 メルセデス・ベンツ300SL
伊東和彦 メルセデス・ベンツ300SL 2025.12.06
玄関に届いた知の箱、速度の夢が目を覚ます
開業を待つ“夢の超特急”東海道新幹線よりも速い自動車がこの世に存在することを知ったのは、百科事典を捲っているときだった。日野ルノー4CVのタクシーでの40km/hでさえ、速いと思った小学生の頃のことだ。1963年のころだったと思う。
いつものことだが前置きが長いのはご容赦願いたい。その時期には、子供ながら東京オリンピックの開催を前にして、大人たちがなにか浮き足だっていた記憶が、おぼろげながらある。中でもある夏の日の光景が脳裏に深く刻まれている。近所の書店主が黒い自転車に大きな段ボール箱を乗せて配達にやってくると、大切そうに箱を玄関に置いて帰っていった。私は興味津々だったが、「お父さんの大切なものだから……」という母の視線を感じて触ることなどできなかった。
夜、会社から帰宅した父は嬉しそうに箱を開け、中から分厚い書籍を次々に取り出すと、分厚くて立派な書籍を並べた。「百科事典といい、知りたいことがなんでも書かれている……」そんな答えだった。そして、大切に扱うことを約束できるなら読んでみなさいと、書籍を傷めないページ捲りの作法を教えてくれた。
平凡社刊の『国民百科事典』といい、この稿を書くにあって調べてみると、1961年8月30日に刊行開始となり、翌62年6月1日に全7巻が完結している。
さらに調べてみると、1961年の日本は空前の百科事典ブームであり、その牽引役になったのが平凡社刊の『国民百科事典』だった。庶民にも経済的余裕が少しずつできはじめ、人々が知識を得たくなったのだろう。初版はすぐに完売したらしく、わが家にやってきたのは、第2刷りだったことを今、知った。
ある晩、晩酌を終えて寛いでいた父が『国民百科事典』を開いていた。脇から覗き込もうとしていた私は、勧められるままに第3巻「じどうしゃ」の項を開いてみた。多数の図版を使い、けっこう多くのページが割かれて、中に世界各国の自動車の性能諸元表を見つけた。繰り出しを含めて20ページを使っての大きな項目だった。
“ばりき”の大きなクルマ、“エンジンのおおきな”クルマなどなど……、父に用語の意味から説明を受けて、“いちばん速いクルマ“を探したところ、メルセデス・ベンツ300SLとあり、時速250kmとあった。父は某自動車製造会社に勤めていた時期があり、多少はクルマへの造詣もあったようだが、横浜でも外国人が多く住む本牧や山手あたりは米国車ばかりでメルセデス・ベンツを見かけることは希だし、300SLなど知らない。こうしたスポーツカーが日本にあるのかも知らないとも言った。
稲妻のようなSLRに心打たれる
しばらくして自動車専門誌を買ってきてくれ、300SLの写真を見て解説を読み、“ガルウィング”という言葉の意味も知った。後日、クルマ好きの叔父から映画俳優の石原裕次郎とプロレスラーの力道山(クーペとロードスターの2台)が所有していると聞いた(石原氏のことは女性誌に掲載されていたとの由)。それからは、どこかで300SL、できれば鳥が羽を広げたようなドアを持つクルマに出会うことを夢想するようになった。
私が300SLの実車を見たのは、1970年代に入ってから盛んに開催されるようになったヒストリックカーイベントであり、それまでは雑誌で見て、プラスチックモデル(アメリカのamt製)を組み上げるだけで満足だった。
もっとも実車に出会う前の東京モーターショーには、300SLR “ウーレンハウト・クーペ”が特別展示車としてやって来て、似たようなスタイリングにもかかわらず遙かに高い性能を知って度肝を抜かれていたのだが……。それは手を伸ばせば触れるくらいの距離に展示されていたのだ。
余談ながら、純レーシングモデルの300SLRから派生したウーレンハウト・クーペは2台のみが製作され、1台をレース部門の責任者であったルドルフ・ウーレンハウトが個人的に使用していた。うち1台が、2022年のオークションで約185億円(1億3500万ユーロ)で落札され話題となった。
北の直線路で、鍵束が開く幼い約束
自動車専門誌の編集部に席を置いてからは300SLのステアリングに触れる機会は何度かあったが、当然ながら“そこいらをひとまわり”のドライブレベルに留まっていた。
だが、北海道での別件の取材のおり、思いがけずに長めのガルウィング・ドライブの機会が訪れた。札幌での前泊の日、以前に知り合っていたメルセデス好きの方を訪ねてみると、貴方へ歓迎の意を現すとすればドライブだなあと、ガレージに向かいガルウィングのキーを手にされた。助手席に座ったオーナーからの「少し踏んでみたらいいです」の声に背中を押され、広く空いた道路で右足に力を入れ、その走りを堪能することができた。
今、思えば、幼いあの日、国民百科事典で“いちばんはやいクルマ”を知った驚きが、現実に繫がった貴重な記念日だったが、写真は1枚も残っていない。1980年代後半か90年初頭のことだ。
このドライブ体験から暫くして、クルマ界のベテランから、昭和34(1959)年に日本の社団法人自動車技術会が調査研究の意図から300SLロードスターを独自に買い入れ、同高速性能委員会が『自動車高速性能研究報告書』(1960年7月)をまとめたことを知った。欧米から遙かに遅れを取っていた自動車産業の成長の糧とすることが目的である。
知人が苦労して入手した報告書を見せてくれたが、300SLは同じく試験車のフィアット500を伴い、1960年5月13〜17日に東京から奈良を往復、1359kmを走っている。当然ながら高速道路が建設される以前の劣悪な道路環境であったから、300SLの実力が発揮されることは不可能だったろうが、その後に日本の自動車会社各社やサプライヤーなど自動車技術会の会員各社に貸し出され、試乗やメカニズムの検討に供された。役目を終えたあとの行方は不明だが、現存していたら日本のクルマ史における道標、そして宝だろう。
紙の百科が灯した火が、古希の手帳を温めつづける
この走行試験にいたく興味を持った私は、1990年代半ばになって自動車技術会メンバーで300SLを実際に運転・検分したほか、入手の経緯を知る方に詳しく話を聞き、証の写真を見ることができた。
当時、これら証言や資料を交えて「日本と300SL」に的を絞った読み物を書きたいと考えていたが、その機会は逸した。もはやそうした歴史話を聞きたい方も稀少だろうから、今では正味期限切れだろう。
少年のころ、百科事典で知った数々のクルマの名やメカニズムが切っ掛けになって、急速にクルマへの好奇心が高まり、それが古希を過ぎた現在に繫がっているわけだ。300SLが切っ掛けとなったメルセデスに限らず、アバルト、ポルシェ、ロータス、シトロエン、アルファロメオなどなど……、現在までの長期間に書き連らねたメモ書きは多い。現代のようにインターネットから多くの情報が手に入る時代であったなら、こうした息の長い“想いの継続”には至らなかったのではないか、箱に詰まった日記をかねたメモ帳の束を見ながら、そう思う。
『国民百科事典』のその後だが、書籍、とりわけ事典が好きだった父が他界した時、コレクションしていた多数の辞典や辞書など書籍類は処分したが、『国民百科事典』だけはクルマ好きになった私の原点として手元に置いてある。こうして一文に書き出してみると、私はずいぶんと執念深いものである。
伊東 和彦
Kazuhiko Ito
フリーランス・キュレーター、関東学院大学理工学部機械学系非常勤講師(2010年より。自動車技術文化史ほか)。著述業/編集者。自動車専門誌編集記者を経て、2010年にMobi-curators Labo.を主宰して現在に至る。自動車専門メディアへの寄稿および、自動車関係展示施設でのキュレーション、解説文の構成・執筆をおこなう。1953年生まれ。