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覗き見のゾクゾク「あれはランボルギーニではないのか?」:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#002

伊東和彦/Mobi-curators Labo. 2023.09.25

 
輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し”の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。1960年代初頭の六本木のワンシーンを振り返る。

前回の続きだ。六本木でシェルビーGT500とモーガンに遭遇した私たち東京見物の中学生が次に向かったのは、ポルシェ総代理店であった三和自動車(後にミツワとの表記にかわる)のショールームだった。すでに一度、“偵察”に行っていた友人が案内してくれたのである。

休日の朝だったからか、ショールームは閉じていて中には誰もいなかった。これ幸いと、綺麗に磨かれたガラスに3人で“おでこ”をくっつけ、両手を“ジャンケンのパー”のようにガラスに押し当てて、さながら幼児のような仕草で店内に展示されていたポルシェ911をしっかりと見た。あとになって20台限定の稀少な911Rではなかったかとの、期待を込めてのちょっとした論争があったが、写真は撮っておらず確認する術はない。

横浜市内でも911や912を見る機会は多くはなかったから、ショールームを見ただけでも充分以上だった。仮に中に社員がいたとしても、中学生の分際で中に入るなど考えもおよばなかったから、誰もいないほうが気兼ねなくショールーム前にたむろして、前の交差点を行き来するクルマを見るという長居ができた。

最初は気がつかなかったが、横に回ってみると、そこは整備工場の入り口だった。パイプ状のシャッターが閉ざされていたが、隙間から中を見ることはできたから、中を覗くことにした。

ショールームのガラス越しに覗くより、見てはイケナイものを見るようで、ずっとゾクゾクしたことを覚えている。911はいいとして、その中央と右端のカバーが掛けられたクルマの存在が実にミステリアスで、いったいなに?との推測合戦が始まった。

とにかく写真だけは撮っておこうと、遠景にもかかわらず一眼レフにつけた標準レンズ(当時はそれしか持っていなかった)で撮影し、後日、暗室でめいっぱい拡大したプリントがここに掲げたカットだ。

カバーを掛けられた中央のクルマがランボルギーニ400GTだと推察したのだが⋯。

右端は今でも不明だが、中央のクルマはひょんなことから、この日の午後にはだいたい推測がついた。日本橋の丸善の洋書コーナーで、このクルマらしいものが掲載されたアメリカの雑誌を発見したのだ。

次は丸善に行こうと提案したのは米国帰りのI君で、売り場で洋書を捲りながら、「ああこれだね」と、ネイティブの発音で意味不明の長ったらしい名前(モデル名と創業者名)をいい、「ボストンでは見たことがあったけど、日本にもあったんだね。アメリカでもめずらしいよ」といった。もっともその瞬間には、ランボルギーニとの発音は聞き取れなかったのだが⋯⋯。

このメーカーが誕生した経緯をエンゾ・フェラーリとの逸話を簡単に話してくれたが、彼のちょっと英語なまりでの詳しい説明には感動し、同世代のクルマ好きとはかけ離れた知識レベルを持つことが信じられなかった。まさに私は井の中の蛙であったことを自覚した。

その後、男性週刊誌の繰り出しカラーページに掲載されていた、ショールーム内に置かれた真新しいダークレッドの400GT2+2の写真を見て、これなんじゃないかと頷きあった。

I君は丸善でアメリカの自動車雑誌、『Road&Track』と『Car&Driver』誌を買った。もちろん私ははじめて目にする雑誌だった。レジで支払いをしている彼の表情には、アメリカで親しんでいた雑誌に再会できて安堵した表情が漂っていたことを覚えている。

ランボルギーニという未知のクルマにボディカバー越しとはいえ接近遭遇したことで、好奇心が破裂しそうになった私の表情を見て取った友人が、「(成績の悪い君が)英語を勉強するなら自動車の雑誌を読めばいいんだ。ナントカ君はPX(前回でも登場したが、米軍関係者にとっての売店)で外国人に頼んで買ってもらった『PLAY BOY』や『Penthouse』の原書で勉強しているよ!」と、いい放った。

そのナントカ君は英語の成績では常にトップだったが、彼が教科書にしている雑誌は中学生には刺激が強烈すぎるカラー写真(若い人にはわからないだろうが、直輸入ものはマジックインキでの修正がなかった)が満載で、わからない単語があっても、とても英語の教師に聞きに行ける誌面ではなかった。

私が親に勉強のためとして、英語のクルマの本を買ってもらったのは、すぐそのあとのことだ。I君にアメリカの通販店で買ってもらったG.N.ジョルガノのエンサイクロペディアで、そのあともずっと重宝し、今でも使い続けている。

こうやって改めて書いてみると、あの時の六本木散策は、その後の私の人生に大きな影響を与えたていたのだなあと、そう思う。

(上)私がはじめてランボルギーニの実物を見たのは、1969年11月の輸入車ショーの会場だった。雑誌で見ていたミウラは車高の低さに驚かされた。(左)このショーではエスパーダも展示された。ランボルギニ・エスパダとあり、私は暫くそれに倣ってみた。 (右)販売店の記載欄にMIZWAの名が入る総合カタログ。後年になってミツワのOBから譲り受けた。

後日談だが、いまから数年前になって、ランボルギーニの広報サイトで見つけたフェルッチョのポートレートに興味深いカットがあった。詳細に見ると、それが件の六本木ショールームで撮影されたものであると特定できた。時期は明らかにされていないが、1960年半ば以降の撮影だろう。同社スタッフの姿だけでなく、後方には右ハンドルの3代目トヨペット・コロナ(T40/50型、1964〜70年)が写っているからだ。満面の笑みでVサインを掲げているところを見ると、なにかの契約(代理店契約?)の時なのかと想像したが、果たして真相はいかに、である。
つい先日、そのあたりに行ってみたところ、高層のホテルが建っていた。あのときシャッターがあった場所に立つと、半世紀以上前の記憶が蘇った。

Vサインをするフェルッチョ・ランボルギーニ。来日時、ミツワのショールームではないかと判断できる。左は同社のOさんか?(Lamborghini photo)
背景に首都高速が見えるので、ミツワのショールームで間違いないだろうと判断した。(Lamborghini photo)

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