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夕暮れのBONDO:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#007

伊東和彦/Mobi-curators Labo. ボンド・エキュイップGT4S 2023.12.31

輸入車販売会社から雑誌記者に身を転じ、ヒストリックカー専門誌の編集長に就任、自動車史研究の第一人者であり続ける著者が、“引き出し”の奥に秘蔵してきた「クルマ好き人生」の有り様を、PF読者に明かしてくれる連載。第7回は、「#007」にふさわしい名のメーカーが生み出した(日本語読みでは、だが)、希少なモデルを紹介する。

いくつかの日本のヒストリックカー・イベントを回れば、世界中のあらゆるクルマを見ることができるだろう。稀少なレーシングモデル、著名なヴィンテージ・スポーツカーは言うまでもなく、アマチュアが手掛けたイタリアの群小スポーツカー、イギリス製バックヤードビルドカーなどなど、たいていのものはやって来ているのではないか。

だが、私がある時、わが家の近所で遭遇して以来、いつかどこかで再会できるだろうと思っているあの英国車の姿は、まだ見ていない。

2000年あたりにイギリスに行ったとき、たまたま街探索中に遭遇したボンド・エキュイップGT4S。イギリスでも希有なクルマに出会うことができた。

記憶は定かではないが、そのクルマを見たのは1970年代はじめのことだったと思う。ある日の夕暮れ、普段はあまり通らない道を自転車で走っていると、路肩にぴったりと寄せ、電柱に頭を向けて所在なげに停まっているかのような、見慣れぬアイボリー色のクーペを見つけた。路上故障に見舞われて停め置かれているようだった。

遠目にはなんというメイクか分からなかったので、近寄ってみると、ボディに控えめに書かれていたBONDOというロゴを見て、それがイギリスのボンドという小さなメーカーが造る「エキュイップGT」だとわかった(正式名はエキュイップGT4S)。

秋の長い夕陽を浴びて、ボンドはいささかやつれているように見えたが、その情景はさながら絵のようにきまっていた。

FRP製のボディは、なんともまとまりのないデザインだが、ダッシュボードの格好よさと豪華さには驚いた。ウッドパネルのダッシュボードにはブラックダイヤルのメーターが居並び、細身のウッドリム・ステアリングと、深いバケットシートを備えていた。

今の私なら、「この車室の佇まいを見ただけで、ほしくなってしまった⋯⋯」、そんなキザっぽい表現をしただろう。本物のレスレストン・ステアリングを見たのも、この日がはじめてだった。

そのころの私がボンドについて知っていた情報は皆無であり、実車を前にして好奇心が臨界点に達した。

クルマが闇の中に溶け込んでしまうまで詳細に観察してから家に飛んで帰り、雑誌とニック・ジョルガノのエンサイクロペディアで調べ、トライアンフ・スピットファイアをベースとしていること、FRP製ボディであることを知った。

日を改め、カメラを持ってその場に行ってみたが、もう姿はなく「ああ、やっぱりな」とガッカリした。

トライアンフ・スピットファイアのコンポーネンツを使用しており、ドアもそれからの流用だ。

エキュイップGT4Sなどというイギリスでさえも希有なクルマが、どういう経緯で日本に輸入されたのだろうか、と思う。

調べてみると、1970年まで、セールチェルニー(株)と(株)阿部モータースとが正規輸入代理店であり、1966年11月に晴海の東京国際見本市会場で開催された輸入車ショーに展示された際のプライスタグは165万円であった。私が目撃したものと同型、同色であり、日本に来たエキュイップGT4Sは、この1台が唯一なのではなかろうか。

現在と違い、1960年代には輸入車の絶対数は少なかったものの、その割にはさまざまなメイクが輸入されていたのである。

当時、ボンドに乗っていたのはどんな人物なのだろうかと、今でも興味がある。トライアンフのファンだったのだろうか。

もし、あの夕暮れのなかで見たエキュイップGTが現存しているなら、ぜひとも巡り会ってみたいと思う。件のボンドは、私がアマチュアクルマ写真の第一人者だと信じ、敬愛するA氏が都内でちゃんとフィルムに収めておられた。

以来、英国車が集まるイベントでもボンド・エキュイップGTの姿を見ることはなかったが、英国出張のとき、移動中に通りかかった公園の駐車場で赤いクルマに遭遇した(この時はナローボートを観に行ったときだった)。

レスレストンのステアリングが標準装着品だった。ダッシュパネルはけっこう豪華だ。

“常時携帯スナップカメラ”として愛用していたミノルタCLEを持っていたので、こんな機会はないだろうからと撮影した。頭を垣根に接近させて駐車していたので、おかしな構図だが、ここに掲載した4枚がそれだ。元になったスピットファイアのドアを流用しているからだろうか、ぎごちないデザインだが、私はなにか引きつけられてしまう。

この話を、老舗輸入車総代理店に長年にわたって勤務された大先輩のH氏に披露したところ⋯、なんと後日、氏の会社にボンド社から送られてきたという資料をいただいた。

日本での販売店にならないかとの手紙に添えられていたもので、『AUTOCAR』誌に掲載されたGT4Sの紹介記事の“抜き刷り”だった。

氏の会社は代理店に名乗りをあげなかったそうだが、資料は捨てずに保管していたのだという。一緒に譲り受けた三輪の“Minicar”の英文パンフレットには、英文で“NICHIEI JIDOSHA”とあるから、ボンドのオリジナルモデル三輪は、英車ディーラーとして知られる日英自動車で販売されていたことがわかる(どれほどの台数が売れたのかは想像もできないが)。

このあと、H氏は引退されるに当たって、長い輸入車ビジネスと趣味で収集されたカタログと書籍のほとんどを私に託しされた。この資料を見ていると、1台のボンドがその縁を取り持ってくれたような気になってしかたがない。

日本の輸入車代理店にボンド社から送られてきたという車両の紹介資料。『AUTOCAR』誌に掲載されたGT4Sの紹介記事の“抜き刷り”だ。

ボンドのこと

ボンドがクルマの自動車メーカーとして産声を上げたのは1948年で、バイク用2ストローク・エンジンを搭載した三輪ミニカーの生産を開始した。会社を興したのは、エンジニアのローリー・ボンドで、コングロマリットの支援を得てイングランド北西部ランカシャーのプレストンに生産工場が設けられた。

三輪車が税制で優遇されていたことで、そこそこの成功を収めて成長することができた(結果的に1966 年に生産を終えるまでにボンド三輪モデルは累計2万6500台が生産された)。

1963年に社名をボンド・カンパニーからボンド・カーズに変更すると、四輪車の生産に乗り出した。トライアンフからコンポーネンツ供給の協力を取り付けると、ヘラルドの後輪スウィングアクスル式全輪独立懸架を備えたセパレートシャシーに、スピットファイアのギアボックスと1.1リッターの63bhpエンジンを搭載。FRP製のボディを架装してエキュイップGTと名付けた。スチール製のスカットルとドアのほか、フロントガラスはヘラルドからの流用だった。FRP製ボディは三輪ミニカーで培った技術であった。

ボンドの三輪ミニカーのパンフレット。英文のままで、代理店として日英自動車の名がある。

そのコンセプトは、「スポーティーなクルマを所有したいが、スパルタンな2座席ロードスターでは困る」というユーザーの悩みを解決することと謳い、2+2クーペの価格は 822 ポンドであった。

車重はスピットファイアに比べて50kg 重くなったが、スピットファイアと比べて動力性能の低下は少なく、『AUTOCAR』誌のテストデータでは0-60mph加速は17.6 秒(スピットファイアは17.3 秒)、トップスピードが90mphとなかなかの俊足ぶりだった。

翌1964年に加わったエキュイップGT4Sでは、ヘッドルームを拡大したほかトランクが開閉式となって、カムテールに改められた。また1967年にはトライアンフの6気筒2リッターエンジン搭載モデルも加えた矢先、68年にボンドを所有していたコングロマリットが会社をリライアントに売却。エキュイップGTは累計でおよそ2500台を生産しただけで、1970年に短い生産期間にピリオドを打った。

ボンドにとって最後になった三輪のミニカー、“バグ”。なかなかスタイリッシュだと思う。EVにしてコミューターとしたら、現代でも通用しそうだ。

ボンドといえば、1970年から70年代半ばに生産され、少数が輸入されたことがある、ボンド・バグが有名かもしれない。オーグル・デザインが手掛けた、牛乳など飲み物の容器にあった“テトラパック”のようなデザインが印象的な、マイクロカーであった。これも乗ってみたい1台であり、友人が現在進行中のレストアが完了するときを待っている。

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