INTERVIEW

ニコンFシリーズとF1トップ・フォトグラファーの対話 #01

金子 博がGPカメラマンになるまで

PF編集部 ニコン 2022.05.22

写真学生から自然にプロへ

40年以上の長きにわたり、自動車レースの世界最高峰であるF1の、トップ・フォトグラファーとして活躍してきた金子 博さん。F1を通算500戦以上取材し、2011年には取材者にとっての栄誉である「名誉パス(honorary media pass)」をFOM (Formula One Management) のバーニー・エクレストン会長から授与された、世界に認められる存在だ。

金子さんは自身のキャリアのスタートから、すっとニコンのカメラを使い続けてきた。「モノ文化」を語り尽くす我々PFとしては、金子さんとモータースポーツのインターフェイスであるニコンのカメラがどういった関係であったのかを掘り下げてみたいと考え、連載インタビューを企画した。まずは金子さんがF1フォトグラファーとなったきっかけから話を始めよう。

金子:鉄ちゃんっていますよね。鉄道を撮る人。たまたま僕は対象物が車だったんですよ。写真を撮るようになったのは中学生の頃です。写真部に入って、体育祭や文化祭を撮っていました。

車が好きなのは小学生の頃からです。おばあちゃんに晴海のモーターショーに連れて行ってもらった記憶があります。ニッサンR380を見て興奮していました。

実家が寿司屋なもので、僕が中学生の頃、市場に仕入れにいく車としていすゞ・ヒルマンがありました。高校生になってオートバイに乗るようになって、ますます乗り物にハマり、そこにカメラがくっついた。車が好きで、写真が好きで、それを組み合わせたらこうなっちゃった。高校生の頃はすでに今の仕事を完全に意識していました。

写真学校に行って、卒業してから「赤坂スタジオ」というところでスタジオ助手になったんですよ。色んなことを習ったり、人と知り合ったり。それでもうプロです。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 報道機関向けモデルであるニコン「F3P」。耐久性の高いチタン製外装をまとい、上部にストロボのマウントが装着された。HPとはハイ・アイポイントを意味する。

PF:プロカメラマンになった当初からレースを撮影していたのですか?

金子:最初は自動車雑誌で働くカメラマンでした。今で言うところの報道試乗会とかそういうのをやらせていただいていて。それと言うのも写真学校時代にモーターショー撮影のアルバイトがありまして。三栄書房から、「とりあえずカメラマンの頭数を揃えろ」みたいな注文だったと思います。

僕が18歳の頃だから50年前の話です。モーターショーで写真を撮らせてもらって、弁当を食べさせてもらって日当ももらって、何週間かしたらモーターファンに「写真:金子 博」って書いてあるわけ。すっごい嬉しくなっちゃって、すっかりその気になりましたね。

PF:18歳だと写真学校に入りたてですよね。

金子:がきんちょですよ。そんなに技術がいる仕事じゃないけれど、モーターショーは忙しいんです。一日で仕事しなければいけないから。

当時はフリーカメラマンが流行り始めだったの。本屋さんでたくさん雑誌を買って、編集部がどこにあるかは書いてあるから、それを全部リストアップして、全部行ったら、結構試乗会とかの仕事をもらえました。自分で言うのも変だけど、器用なカメラマンだったから、重宝してくれたみたいで、そんなに大きな失敗はしなかったんですよ。だからいっぱい使ってもらえるようになって。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 (左)金子が写真学校生のとき、初めて手にしたプロ用機である「ニコンF」は1959年に登場。(右)2004年に登場したニコン「F6」は、銀塩フィルム式のハイエンド機としては最終型となった。

日本にF1が来ないなら、撮りに行こう

PF:グランプリ・カメラマンへの道筋はまだ見えませんね。

金子:ふと気が付いたんです。これをこのまま20年、30年、40年やっていたら、残るのは疲れた体と壊れたカメラだけだなと。それではもったいないなと思い始めました。すでに雑誌の仕事で筑波とか富士には行っていたんですよ、レースの撮影で。でも、それも日当仕事だから何も残らない。

そのうち、もっと速いレースがあるみたいだなというのが分かってきました。その一番凄いレースは、どうも「F1」というものらしいと。じゃあそのF1を撮りに行くしかないなと。自分で行って、自分の考えで、自分のお金で、自分の行動力で、全て自分でやって写真を撮って帰ってきて、その写真を売ろうという考えでした。

初めてF1に触れたのは1976年の富士(F1世界選手権イン・ジャパン)です。翌年にもう一回日本グランプリが富士であって、大きな事故があって翌年からF1が来なくなったじゃないですか。しょうがないから、こっちから海外に行くしかないなと。本当に単純な動機なんです。それで1978年に、初めてヨーロッパに行きました。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 1981年のジル・ヴィルヌーヴとフェラーリ126CK。金子さんがキャンピングカーを買って毎戦、F1を追いかけ始めた最初の年だ。

PF:シンプルな動機だけど、実現するとなればそう簡単な話ではないですよね。

金子:最初は何にもわからなかったです。そもそもサーキットの場所が分からないし、調べる術さえもないですから。世界地図を買ってきて「ここがモナコなのか」みたいな、そのレベルでした。ましてや取材申込みをどうしていいか分からない。今から考えるとすごく、いらない苦労をしていました。現地に着いて、取材のパスをもらった時点でもう仕事終了、と言いたいくらい疲れていました。

PF:当時は毎戦申請していたのですか?

金子:1レースごとです。今はFIAがありますよね。あの頃は各レースの主催者に直接連絡していました。オートクラブ・モナコとか。それもテレックスですよ。公衆テレックスというのがありましてね。浜松町の貿易センタービルに電信電話公社があって、そこで打っていました。面白かったですけどね。

PF:その頃すでに、ヨーロッパに行ったきり日本には戻らなかったのですか?

金子:いや、当初はF1を2戦取材して、一度日本に帰ってくる感じでした。あの頃はF1とF1の間に何か別のイベントがあったんです。F1を撮ってF2を撮ってもう1つF1を撮って帰ってくるとか、F1を撮ってWECを撮ってもう1つF1を撮って帰ってくるとか。もちろん最初から全戦行っていたわけではないです。78年はモナコ一回だけ。翌年はもっとF1の数を増やそう、その翌年はさらに増やそうってやっていましたね。

そうしたらどんどんのめり込んで、帰ってくる時間もお金もなくなってきます。しょうがないから中古のキャンピングカーを買って、それでずっと暮らすようになりました。4月にヨーロッパに行って、ずっとキャンパーで回って9月に帰ってきてました。あほだったね。今ほど危険ではないからできたんでしょうけど。俺も若かったし。キャンピングカーは40万円でした。ホテルに泊まらなくていいし、レストランにも行かないからお金が掛かりません。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 (上)1985年、ティレル014に乗り込むステファン・ベロフ。(左)1984年モナコGPのトールマンTG184とアイルトン・セナ。(右)1985年モナコGPのロータス97Tとアイルトン・セナ。

F1の写真を撮ることだけ考えた

PF:キャンピングカー生活はどれほど続いたんですか?

金子:1981年から94年までです。地獄のようでしたが、いま思い返すと楽しい思い出がたくさんです。かみさんも一緒に行ってましたから、どんどんのめり込んちゃって。

いまこの歳になると、仕事にしろ人生にしろ、こっち行こうか、あっち行こうかとか、止めようか緩めようかとか、色々悩むことがあります。でもその頃は何にも思わなかった。何の苦もなく、要するにF1の写真を撮るというそれだけが目標。それをするにはどうすればいいかということだけを考えればよかったのです。

どうしようかって考えている時点で、結論は「GO」なんです。そのために行く。今は色々な選択肢があります。でもその頃は選択肢はなかった。F1に行くにはどうすればいいか、ただそれだけでしたから、そういう意味では全然楽でしたね。何にも考えてなかった。全てF1の撮影ためにぶち込んで、そうしたらこんないっぱい写真が溜まっちゃったという感じです。

photo: Hiroshi Kaneko 金子 博 F1のボス、バーニー・エクレストンから直々に贈られた「名誉パス」。2011年ブラジルGPにて。

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