伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#42 ランボルギーニを訪ねた日(その2)
伊東和彦 ランボルギーニ 2026.02.04
追憶のフィルムから見えてきた、あの日
前回に続いてランボルギーニ工場訪問の話題だ。前編の粗筋をお話しすれば、「ランボルギーニ工場見学 イタリア旅行にて撮」とだけ書かれた封筒を発見したことが発端になった。私的な旅行の際に撮影した写真を放り込んでいた“未整理写真”箱の中にあった。取材活動ではなかったが、イタリアの産業界に精通した人物が同行したことで、広報部門のスタッフの案内で短時間に見学した記憶がある。よって写真はスパイショットではない、念為。メモゆえに撮影年月日を知る記録は残っていないものの、被写体から推測して1987年晩秋か冬、88年早春ではないかと推定できる。
そこには、私が工場裏のスクラップ置き場に異様なまでに引きつけられたことが分かるショットが何点かある。大きな収穫はカウンタックの衝突安全実験車両だろう。ボディサイドに英国の試験・研究施設であるMIRAの文字を認め、これは“ただもの”ではないと思ったのか、角度を変えて2枚も撮影している。
ランボルギーニを扱った書籍には、カウンタックLP500プロトタイプ(ダビデ像の前での撮影で有名)は、認証を受けるため1974年6月にMIRA衝突試験に使われて破壊されたと記されている。MIRAでのテスト時には赤色の塗装とあり、私が目撃したのは1974年時の試験車とは別のクルマと考えられる。肝心のフレーム構造がその時の車両とは異なる市販型でもある。規定速度でのバリアーへの衝突試験に供された車両なら、フロント部分の壊れ方が肝心だが、その時の私は前部を写していない。
もう1台、興味を抱いたことが分かるのは、エスパーダの試作段階のモデルと推察したのだろうか、朱色のクルマに2回シャッターを切っている。この貴重であろう開発車両は後にスクラップ置き場から救いだされたようで、綺麗にレストアされて現在はサンタアガタのランボルギーニ・オートモビル・ミュージアムに展示されていることを知った。このほかオフロードモデルのLM002の衝突実験に使われた車両の姿もあった。
建屋内にはレストアを待つエスパーダや400GTなどのフロントエンジン・モデル、ミウラなども置かれていた。その中にはエンジンルームから出火したミウラの姿もあり、私は前後から撮影していた。これを書くにあたって拡大して見返してみると、イオタと名付けられて、スーパースポーツカー・ファンにとって神格化されているスペシャルバージョンでありそうなことがわかった。実はこの稿を書くまで、私はイオタの名を知る程度であり、知識は皆無に等しかったので少し調べてみた。
ランボルギーニは公式資料でイオタについて、「FIAのツーリングカーおよびGTカーに関する「付録J」に規定されたレースにミウラが参戦できるようにするために、テストドライバーのボブ・ウォレスが製作したワンオフモデル」としている。フェルチョ時代のランボルギーニはレースを禁じていたこともあり、ミウラの開発ベッドとしての存在であった。ウォレスが手掛けたオリジナル・イオタは、3万kmの社内テストを終えた後、シャシーナンバー5084と打刻されて1972年8月に顧客に販売された。当然のように、顧客から同様のスペックを持つミウラを望む声が上がり、市販用として4台のSVJと1台のSVRが造られたとされている。このほかに市中で生産型ミウラをそれらしく改造した例もあるという。
ランボルギーニ・ポロストリコは、2020年2月の「レトロモビル」に、SVJの生産4台目をレストアして展示した際、展示車について1972年夏にドイツ人レーシングドライバーでランボルギーニのドイツ輸入業者だったヘルベルト・ハーネの注文で製作された車両だとし、そのシャシーナンバー4860は、新車からイオタ仕様で造られた車両だと明記している。さらに、ちょうどミウラの終焉がそう遠くない時期であったことから、ハーネはミウラを送別する意味でボディを黒色に指定し、1973年4月末にハーネの元に届けられている……。
ある程度の知識を得た上で、改めて2枚の写真を観ると、レース参加を夢見てパワーアップされたエンジンを搭載したイオタはランボルギーニ・ファンのなかでは、希少性ゆえに特別な存在であることが理解できた。
私が1987年ごろにランボルギーニで目撃した焼けただれたミウラには、プレキシグラスでカバーされた固定式ヘッドランプ、フロントカウル上面右に備えられたレースタイプの給油口、リベット留めの痕跡が残るアルミ製の前後カウル、前後ホイール直後の金網を貼ったエアアウトレットなどなど、文献で知ったイオタの外観上での特徴をすべて備えていた。
さらに、オリジナル・イオタは顧客に引き渡されたあとでひどくクラッシュしたと、さまざまな文献に記されているから、唯一のオリジナルカー(5084)ではないはずだ。
私が目撃したシルバーのイオタらしきクルマは、エンジン部分から火災を起こしたかのような損傷を受けている。生産型のままのスチール製センターセクションが赤く錆びていてもほぼ原型を留めているのに対して、リアカウルの一部が溶けていることからアルミ製であるのは明らかだ。この程度(?)の損傷なら、イタリアのスペシャリストの手にかかれば復活は容易だろうから、修復されたことは間違いないだろう。
前述したハーネのSVJ(4860)は、ハーネの元にあった1976年にシルバーに塗り直されたという。果たして私が目撃したクルマがそれだったのか、真相はわからないミステリアスなクルマだ。
前編では、LM002パリダカールの別名を持つエヴォリツォーネが2台、工場内に並んでいたと記したが、スタッフによって外に引き出された。私たちが興味を示したからだろう。すると、白く塗装されたランボルギーニのファクトリー・プリペアのマシン脇で、スタッフウェアを着た人物が立った。このあたりの光景は写真を見ていると思い出された。だれあろう、ランチアでラリー選手権を席巻したサンドロ・ムナーリだった。
ムナーリは1988年にパリダカールでステアリングを握る予定であったが、プロジェクトは頓挫してしまい、マシンは撮影時に未使用であったはずだ。ランチア・ラリーカーが好物(特にフルヴィアHF)の私だったが、英雄ムナーリにサインを懇願した記憶はない。幾多の選手権を獲得したチャンピオンが放つ鋭い眼光にたじろいだのだろうか。
工場中に無造作(ではないだろうが)に置かれていた部品にもいくつか目を奪われた。加工を完了したばかりのV12用カムシャフトなどなどで、その度にスナップ写真を撮っている。その中で、“Pironi”とマーカーで書き込まれている部品があった。ピローニの名に目が止まってシャッターを切った1枚がある。私はフェラーリF1ドライバー時代のピローニが好きだったからだろう。ディディエ・ジョゼフ=ルイ・ピローニは、レース中の事故で大怪我をしてから1987年にパワーボートレースに転身。彼のボートである「COLIBRI」にはランボルギーニ製V12エンジンを2基搭載していたが、このパワーボートの部品だろうか。不幸なことに彼は同年8月23日の世界選手権出場中、事故で他界している。
こうして、工場内のあれこれと立ち止まっては感心する、おそらく“じゃまな見学者“な私であった。マウロ・フォルギエーリやサンドロ・ムナーリとも握手できたし、幸運な訪問だった。写真はこれっきりで、これを超える宝物は箱の中にはなかった。